多くの映画関係者が“神様”のように思っている名匠マーティン・スコセッシが、マーベル映画について、『あれは映画ではない』と発言したことが口火となって、ハリウッドを越えた“映画論争”が勃発中。様々な立場の人たちが様々な意見を繰り出して、なかなか収まるところがありません。一体この事態はどうなってしまうのでしょう?(文:LA 在住・荻原順子/デジタル編集:スクリーン編集部)

スコセッシに続いて巨匠コッポラたちもさらなるマーベル非難発言

「タクシー・ドライバー」や「グッドフェローズ」などで知られる米国の監督マーティン・スコセッシが、英国の映画雑誌エンパイア2019年月号のインタビューで、「アベンジャーズ」シリーズをはじめとするマーベル映画についての意見を聞かれた際、『あれは映画ではない。テーマパークに近いものだ』と発言。

物議を醸したが、スコセッシはさらに月日付のニューヨーク・タイムズ紙で『私は、マーベル映画は映画ではないと言った。それについて説明しよう』と題した社説を寄稿。

『私にとって映画とは、芸術的、感情的、精神的啓示を受けるものであり、時として矛盾をはらむ複雑なキャラクターたちとその葛藤や、彼らが傷つけ合ったり愛し合ったり自分と向き合うさまを描くものである』と持論を展開した。

スコセッシの盟友、コッポラ監督はさらに過激な発言を

スコセッシのマーベル映画批判を受けて、「ゴッドファーザー」シリーズの監督フランシス・フォード・コッポラは、スコセッシに賛同。

映画からは『啓発や知識、刺激といった何かを得ることを期待する』ものであり、『同じような映画を何度も何度も観て何かを得る人が居るとは思えない。マーティンが「映画ではない」と言ったのはまだ親切だ。私だったら「卑しむべき」と言ってしまうだろうから』と、スコセッシよりさらに辛辣にコメントしている。

「リフ・ラフ」や「麦の穂をゆらす風」といった作品で知られる英国人監督のケン・ローチも『マーベル映画は退屈に思える。ハンバーガーのように商品として作られているから。大企業に利益をもたらす商品のように市場を意識して冷めた姿勢で作られている作品は、映画芸術とは無縁なものだ』と容赦無い見方を示す。

今では名作といわれる映画もかつては“卑しむべきもの”“退屈なもの”と言われた

そのような監督たちの発言に対し、当然のことながら、マーベル映画の製作に関わる映画人たちは反発するコメントを次々に発信。

ジェームズ・ガン監督が巨匠たちの意見に反論を

例えば、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズを監督したジェームズ・ガンは、自分の祖父たちの世代はギャング映画を『卑しむべきもの』だと考え、曽祖父たちの世代はジョン・フォードやサム・ペキンパー、セルジョ・レオーネによる西部劇を同様に考えていたと指摘。

「スター・ウォーズ」について熱く語っていたら大叔父に『「2001年宇宙の旅」という似たような映画を観たが退屈だったよ!』と言われた経験談も披露して『スーパーヒーロー映画は、現代版のギャング映画/西部劇/宇宙冒険物だということに過ぎない。そのようなジャンル作品には秀作もあれば駄作もあるが、スーパーヒーロー映画だって同じこと。皆が皆、そのような映画の良さが解るわけではないし、天才的監督でも解らないかもしれないが、それでも構わないじゃないか』とツイートした。

画像: マーベル社長のケヴィン・ファイギも『映画を見る定義は様々』とコメント

マーベル社長のケヴィン・ファイギも『映画を見る定義は様々』とコメント

マーベル・スタジオの最高責任者でマーベル作品のプロデューサーを務めてきたケヴィン・ファイギは、自社作品の製作に関与してきた人々は自身を含め、皆、映画を愛し、映画館で映画を観ることが大好きであるとし、『僕はあらゆるタイプの映画が好きだから、いろいろなジャンルを取り混ぜながら映画を製作してきたつもり』だとしたうえで、『映画の定義は人それぞれ。アートの定義も人それぞれだし、リスクの定義もそれぞれだ。誰でも意見を持つ権利はあるし、それを繰り返す権利もある。その意見を社説に書く権利もあるし、それがどのような話になっていくのを見極めるのは楽しみでもある。でも、とりあえず僕たちは映画を作り続けていくつもりだ』と、スコセッシの批判を認識しながらも、キッパリと我が道を往く宣言とも取れる発言を残している。

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