SCREEN 2022年2月号で本格的創刊から75年を迎えたSCREEN。その長い道のりは、戦後、日本人が愛した外国映画や海外スターの歴史と重なるといっても過言ではないでしょう。そこで75周年を記念して、SCREENが日本の読者に紹介してきた数えきれない人気映画&スターの変遷を、本誌のトリビアと共に振り返ってみましょう。今回は、創刊から1950年代に注目します。(文・松坂克己/デジタル編集・スクリーン編集部)

戦後まもなく創刊してオードリー・ヘプバーン、
ジェームズ・ディーンなど海外の“新星”を日本に紹介

SCREENが創刊されたのは敗戦から一年も経っていない1946年5月のこと。タイロン・パワーと原節子の両面表紙で、いまより一回り小さいB5判、わずか16ページの小冊子だった。この時は季刊で、月刊化されたのは1947年の2月号(通巻第三号)から。創刊何周年というのはこの1947年2月号を基準にしている。また、1948年2月号からは創刊一周年を記念して誌名の表記はカタカナの〝スクリーン〞になった。1940年代末からはカラーページも登場している。

創刊号はタイロン・パワーが表紙

月刊化第1号(表紙はバーバラ・スタンウィック)

創刊当時は占領軍の外郭団体であるセントラル映画社が一手に外国映画を配給しており、大半がアメリカ映画だったが、戦時中に製作された作品も戦後になって公開されたことから、50年代になっても戦前・戦中の作品が公開されることがよくあり、1939年製作の超大作「風と共に去りぬ」も1952年になってようやく公開され、大ヒットを記録した。

画像: 1952年に日本初公開された超大作「風と共に去りぬ」

1952年に日本初公開された超大作「風と共に去りぬ」

戦前からのスターだったハンフリー・ボガートやイングリッド・バーグマン、エリザベス・テイラーらが人気を誇ったのはいうまでもないが、50年代に入ると「ローマの休日」でオードリー・ヘプバーン、「エデンの東」「理由なき反抗」でジェームズ・ディーン、「ナイアガラ」でマリリン・モンローといった新星が登場し、映画界にも新しい息吹が感じられるようになっていった。また53年には第一回のフランス映画祭が開催され、ジェラール・フィリップも来日し熱狂的歓迎を受けた。

画像: フランス映画祭で来日したジェラール・フィリップ

フランス映画祭で来日したジェラール・フィリップ

1952年にはセントラル映画社が解体され、戦前同様にハリウッド・メジャーのそれぞれの日本支社が配給を行なうようになり、また日本人による洋画の配給も認められたことから邦人の配給会社も誕生、外国映画の公開本数は一気に急増した。またこの年には、以後半世紀近くに渡って連載されることになる双葉十三郎氏の伝説的な映画評コーナー『ぼくの採点表』がスタートしている。

画像: 【創刊75周年記念】人気映画&スター変遷を振り返る Part1 創刊〜1950年代

1952年から約半世紀続いた長尺連載『ぼくの採点表表』の第1回。双葉十三郎氏の軽妙で的を射た映画短評はファンにも玄人にも好評で、2000年まで続いた。

50年代中盤からはスターばかりでなく監督も来日するようになり、スクリーンにもそうした来日記事が多く掲載されるようになった。

55年末にはアルフレッド・ヒッチコック監督も来日し、日本の映画人と交流した。またこの時期には日本ロケの外国映画の製作も盛んになり、マーロン・ブランドの「八月十五夜の茶屋」、ジョン・ウェインの「黒船」はじめ、「八十日間世界一周」「サヨナラ」「青い目の蝶々さん」などの日本ロケが行なわれ、エキゾチックな日本を紹介していた。

巨匠アルフレッド・ヒッチコックの来日も報道

日本ロケが行われた「黒船」の撮影現場記事も

50年代後半からはTVが家庭に浸透し始めていたこともあり、スクリーンにもTV放映される映画やドラマの記事が載るようになり、1958年にはレギュラー・コーナーとして定着するようになった。

この頃は、国税庁の調査によると国民一人当たりが一年間に鑑賞する映画の本数は約11本。現在が1本強という程度だから、いかにこの当時は映画が娯楽の王様だったかが分かるというものだろう。

Photos by Getty Images

Part2(1960年代〜1970年代)はこちら

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