女性映画監督の先駆として、フランス映画の革新的映画作りの実績を重ねること60年以上。ヌーヴェル・ヴァーグの旗手と呼ばれる、ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーたちより、はるかに早い1954年に『ラ・ポアント・クールト』という、それまでになかった斬新なスタイルで映画を作っていたのが、アニエス・ヴァルダです。
それが、彼女を「ヌーヴェル・ヴァーグの祖母」とする所以なのです。
そんな彼女へ、映画界からのリスペクトの証しとも言える、2015年のカンヌ国際映画祭で史上6人目となるパルム・ドール名誉賞、2018年には第90回アカデミー賞名誉が贈られ、現在90歳のヴァルダ監督は今も輝いています。
気鋭のストリートアーティストとのコラボに挑戦
最新作の『顔たち、ところどころ』は、2017年、彼女が89歳で制作したドキュメンタリー作品で、2017年のカンヌ国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞受賞、トロント国際映画祭の観客賞を受賞。2018年には、アカデミー賞ドキュメンタリー部門とセザール賞ドキュメンタリー賞にノミネートされ、注目を集めています。
彼女は、54歳も歳の離れた、サングラスで素顔を隠すJRという気鋭のストリートアーティストの青年と一緒に旅をします。出会った人たちを巻き込んでの二人のアート活動は各地で異彩を放ち、小さな「奇跡」を起こしていくのです。それを映し出す映像は極めてクリエイテイブな「珍道中」と言おうか、アーティスティックなだけではない、ヒューマニティ溢れるロード・ムービーであり、珠玉の逸品です。
ヴァルダ監督は、自分が興味あるのは、権力を持たない市井の人々だと言い、JRと共に、「移動写真館」まがいのトラックを走らせ、酪農家や港湾労働者や郵便配達人らを訪ね、彼らのポートレート的写真を撮り、大きく伸ばしては、彼らの住まいの壁にベタベタと貼りつけていきます。
こうした、二人の「共犯者」たる息ごみは、歳の差を越え、意見の戦わせはあるものの、実にピッタリと合い、二人のアートな感性にブレなどないことを感じさせます。合言葉は、アートで人々を驚かせること!なのですから。
ひとたび写真に撮られた人々は、彼ら所有の建物に、「お尋ね者」のごとくデッカク貼り出された自分たちの顔に圧倒され感動し、
「これこそ、アートだ!」
と喜びいっぱいで驚嘆する。その人たちこそ、この作品の素敵な主人公たちとなっていくのです。
アート活動で、市井の人々に驚きと喜びを
毎日の生活を地道に黙々と送るその人たちに、アート活動で驚きの新しい風と光を送るヴァルダとJR。彼らが、二人の天使のように見えてくることも、この作品のまたまた素敵なところ。
その間の二人の会話は、孫と祖母のそれとなんら変わらない自然で微笑ましいもの。しかし、そこにアートとは何かの神髄が見てとれるのですから、さすがはヴァルダ監督、映像作家としての手練れの面目躍如。
この作品そのものが、歳を重ねたヴァルダ監督の、人生の貴重な一コマ一コマのコラージュであることに間違いはありません。
写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソンの墓も訪れる中、旅の終わりには、映画ファン待望の、あの映画監督ジャン=リュック・ゴダールの家を訪れると言うのですから、観る者の期待は膨らみ頂点に達します。
ヴァルダ監督の夫で、『シェルブールの雨傘』(64)で知られる故人となった、名監督ジャック・ドゥミともども親交が深かったゴダール、彼女の訪問をどのように受けとめるものなのか、写真をどう撮らせるのだろうか……、さて、このあたりからは、観てのお楽しみにしておきましょう。
ヴァルダ監督のインタビューは叶いませんでしたが、彼女をこよなく尊敬し、本作のプロデューサーの一人でもあり、女優としても知られるジュリー・ガイエから、本作について、またヴァルダ監督について、プロデューサーとして興味深いお話をうかがうことが出来ました。
女優もプロデューサーも、監督の想いを伝える役割
ヴァルダ監督の作品『百一夜』(94)に出演して、彼女と出会って以来、それまで知らなかった映画の世界のことを、多く学ぶことが出来たと言います。例えば、ブニュエルの存在などを知るにつけ、映画との関わりも女優だけにとどまらず、製作することに強く興味を持つようになったと言うガイエ。ヴァルダ監督が『歌う女・歌わない女』(76)で描いた、フェミニズムに取り組む姿勢にも影響を受け、一人の女性として尊敬できたとも。彼女にとってヴァルダ監督は、師であり、働く女性としての大先輩としてリスペクトしているのだそう。プロデューサーとしては、『RAW 少女のめざめ』(16)『判決 ふたつの希望』(17)など、意欲的に作品に取り組んできました。
──映画作りにおいて、プロデューサーと女優との違いは何でしょう?
「女優になりたいと言うと、人は有名になりたいからだと思うようですが(笑)、私は純粋に人に何かを与えたいという気持ちで女優になりました。両親からはピアノや歌うことを習わせられましたが、もっと直接的に深い感情を表現したくて、映画の世界を選んだのです。女優からプロデューサーにもなって、映画に関わってみてわかったことなのですが、共通している点があります。いずれも、監督のために役立つことが仕事です。女優は監督が伝えたいことを監督に代わって演じる。プロデューサーは、例えばどの映画祭で作品を上映するべきなのかとか、すべて監督の意のままに、外と折衝したりして監督のために働きます。いずれも監督の代わりとして(笑)」
ヴァルダからもらった言葉は、魔法の言葉
──見事な成果を出された本作ですが、監督、そして、プロデューサーであるガイエさんの思う仕上がりになりましたか?
「今回の作品は、もともとはヴァルダのお嬢さんのロザリーが、JRを母親に紹介し企画されました。極めてヴァルダの私的な作品、例えば2000年の彼女のドキュメンタリー作品、『落穂拾い』のようなものになるだろうと。しかし今回は、JRという若きアーティストとのコラボレーションであり、そこには若い世代に「繋いでいく」という思いもある。そのためにも、母と娘だけで作るのではなく、私の様な「部外者」が加わる必要があると感じ、参画することにしました。ヴァルダも映画監督になる前は写真家でしたから、JRとの共通項はバッチリですし、どんな出来上がりになるかなんていう不安はありませんでした。
ドキュメンタリーといえども、ただ記録したものを作品にするのではなく、編集して完成させていくものです。編集においてはもう、監督だけの意志や意向を越えていくと言ってもいいでしょう。映画における編集力はとても重要です。それでこそ、プロデューサーが必要とされるのですから」
真実とクリエイティビティの融合がドキュメンタリー映画であると語るガイエの発言は、終始小気味良いものでした。
「ヴァルダは、監督以前に、私の素敵なおばあちゃんなんです」とも言うガイエだが、ヴァルダから、もらった言葉があると教えてくれました。
「普遍性というものは、キッチンのドアを押した時に始まる」というもの。
普遍のもの、市井のものなどなど、日常の身近なものを見つめ、見逃さない視線こそ、映画づくりに欠かせないというような、まさにアニエス・ヴァルダという女性の精神を感じさせる深い言葉です。
ヴァルダ自身への贈り物となった最新作
出会った時に、この一言でガイエという女優を虜にし、プロデューサーへと導いてしまった魔法の言葉。もう一つあるそうです。
「私の子供は、私の人生。私の子供が、ここ(撮影現場)にいるのは当たり前」という啖呵!
ヴァルダが映画撮影の時に、幼い子供を現場に連れて作業をしていると、子供は邪魔だと言われ、そうではないと主張した時の言葉だそうです。ガイエが感心したのは、ヴァルダという人は徹頭徹尾、公私を分けないで仕事が出来る女性で、私的なことをすべて映画づくりに取り込んでしまい、それをヴァルダ流として作品のスタイルにまでしてしまう才能の持ち主であるということ。真似したくても、真似できない才能だと言います。
まさに、ふたつの言葉は、「ヌーヴェル・ヴァーグの祖母」からの箴言そのもの。その言葉を裏打ちできるのもヴァルダだからです。
──出来上がった作品の中で、ここ一番というシーンは?
「やはり、(ゴダールに関わった)最後のシーンですね。泣けました。ぜひ、多くの方々に観ていただきたいです」
筆者も、涙が止まらなかった最後のシーン、最後のまとめ方。ドキュメンタリーというより、すべてはアニエス・ヴァルダへの贈り物というべき、奇跡の出来事なのです。
『顔たち、ところどころ』12018年9月15日(土)より、シネスイッチ銀座、新宿シネマカリテ、アップリンク渋谷 全国順次公開
脚本・監督・出演・ナレーション アニエス・ヴァルダ、JR
製作総指揮 ロザリー・ヴァルダ
共同製作 ジュリー・ガイエ他
字幕翻訳 寺尾次郎
配給 アップリンク
2017年/フランス/89分/カラー
©Agnès Varda-JR-Ciné-Tamaris, Social Animals 2016