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アラン・ドロン プロフィール
1935年11月8日、仏パリ郊外、セーヌ県ソー生まれ。17歳で仏軍に入隊。第一次インドシナ戦争に従軍した。20歳で除隊後、世界を放浪して歩き、帰国後カンヌを歩いていた時、スカウトされハリウッドに行きかけるが、フランス映画『女が事件にからむ時』(57)で俳優デビュー。数本の映画に出演した後、『太陽がいっぱい』(60)が大ヒット。特に日本で人気を呼んだ。一時アメリカに進出したが、やはりフランスを本拠地として『サムライ』(67)『冒険者たち』(67)などに主演し、人気を高める。70年代は日本でダーバンなどのCMにも出演し、お茶の間でも有名になったことから日本人なら誰でもその名を知っているほどの存在に。81年の『危険なささやき』では監督も兼任した。2024年8月18日ドゥシーの自宅で死去。享年88。
『太陽がいっぱい』では悪役なのに人気が爆発した稀有なスター
映画の世界には過ぎていく時代それぞれの記憶に残るスターが出現する。いまなら『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』が大ヒットしたティモシー・シャラメだろうか。少し前ならブラッド・ピット? 1960〜70年代の日本で圧倒的人気を誇ったフランス映画の大スターが2024年8月、88歳で亡くなったアラン・ドロンだった。
もちろんハリウッド映画のスターたちも人気があったけれど日本全国誰もが知るほど人気があったのはアラン・ドロンだ。最初にその名が知られた主演作『太陽がいっぱい』(60)は、フランス映画の巨匠ルネ・クレマン監督がパトリシア・ハイスミスの原作を映画化して生まれたスリリングなサスペンス劇。ドロンが演じたのは金持ち息子を殺してその恋人も奪うトム・リプレー。ふつう、悪役俳優が人気スターになるのは難しいが、そんなハンデを超えて彼は圧倒的な人気をものにした。
若い女性三人を相手にした陽気なドロンが楽しめるキュートなラブ・コメ『お嬢さんお手やわらかに!』(59)に続いて『太陽がいっぱい』が公開され、違う角度から人気の後押しをしたのもプラスになった。
巨匠クレマン作品のあとにドロンが出演したのは、イタリア映画の名匠ルキノ・ヴィスコンティ監督がイタリア南部の貧しい育ちでボクサーを目指して都会へ出た青年を描く『若者のすべて』(60)。当時のドロンは『恋ひとすじに』(58)の共演相手ロミー・シュナイダーと婚約していたが、やがて破棄して無名女優ナタリー・バルテルミーと64年8月に結婚。ロミーを実の娘のように愛していたヴィスコンティを激怒させた。
このころハリウッドも彼に注目していて『泥棒を消せ』(65)に出演のため、新婚のナタリーと共にロサンゼルスへ行く途中の彼は、日本に立ち寄り、映画誌の新米編集者の私は彼にインタビューする先輩編集者のお供でついていった。生のアラン・ドロンに会える!
イケメン・スターをじっくり見るつもりだったけど、彼は、すっかり舞い上がっている日本娘の顔をフーンという感じで見てあとは後ろ向きのまま…。
ロミーとの婚約破棄やナタリーとの結婚でフランスの居心地が良くなくなっていたドロンはアメリカ行きを決意したものの、五本のハリウッド映画に出演後、住むこともないまま帰国している。
そしてまず出演したのがリノ・ヴァンチュラとみずみずしく輝くジョアンナ・シムカスと共演したロベール・アンリコ監督の『冒険者たち』(67)。トレンチコートの殺し屋役がよく似合ったジャン=ピエール・メルヴィル監督の『サムライ』(67)。ハリウッドの個性の強い脇役スター、チャールズ・ブロンソンと共演の犯罪サスペンス『さらば友よ』(68)…これらの出演作を見れば誰だって、これこそ本物のアラン・ドロン! と思ったはず。陽光輝くカリフォルニアより灰色に曇ったヨーロッパの空が彼にはよく似合う。
ライバルだったジャン=ポール・ベルモンドとの共演作も大ヒット
アメリカ行きの前に念願だった大先輩ジャン・ギャバンとの共演が実現した『地下室のメロディー』(63)。仲直りに成功してヴィスコンティの名作『山猫』(63)に出演。そのときのことを長年ヴィスコンティ映画の脚本を書いてきたスーゾ・チェッキ・ダミーコは、「アランはとても誠実な人。ヴィスコンティは許したのよ」と言っていた。ドロンが絵画に興味を持ち、知的に磨かれていたと伝えられるのはヴィスコンティによるところが大きいのかもしれない。
70年代はまさにドロンの絶頂期。フランスでは1950年代終わりから始まった若い映画作家による新しい映画作りの波“ヌーヴェルヴァーグ”の時代が訪れ、フランス映画界を知る日本の映画人の間ではこの時代の旗手ジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』で世に出たジャン=ポール・ベルモンドの方がフランスではドロンより人気がある、と言われていた。大ベテランの名作に出演し続けたドロンと、若い監督や大衆的な作家と組んできたベルモンド。どちらも人気者の二人が共演する映画『ボルサリーノ』(70)がドロンの製作で生まれて大ヒット。そしてその翌年にはブロンソンに三船敏郎が加わって大型西部劇『レッド・サン』(71)が誕生した。
仕事は快調だったが、私生活には問題があった。ナタリーがドロンの反対を押し切り、名前をナタリー・ドロンに変えて本格的に女優業を開始。そこで離婚になり、彼は映画の共演で出会ったミレーユ・ダルクと暮らし始めている。同じ頃、以前にナタリーとドロンのボディーガードをしていたマルコヴィッチという男が殺され、ドロンが殺人容疑で取り調べを受ける、という事件が持ち上がった。
この容疑は間もなく晴れたが事態はフランス政財界を巻き込む大事件へと発展、ドロンの暗黒街とのつながりも発覚したが、彼はこの苦境を乗り越え、自らの製作会社アデル・プロダクションを成功させ、81年には『危険なささやき』で監督デビューしている。
90年代に入ってからも『カサノヴァ最後の恋』(92)やベルモンドと共演の『ハーフ・ア・チャンス』(98)に出演。2019年のカンヌ国際映画祭で名誉パルムドール賞を贈られ、世界に配信された受賞の映像の中の彼は老いの陰りをどこかへ置いてきた男に見えた。
アラン・ドロンら3大スター共演の異色アクションがリバイバル『レッド・サン 』
フランスが生んだ大スター=アラン・ドロン、日本が誇る名優=三船敏郎、アメリカン・アクションの第一人者=チャールズ・ブロンソンが広大な荒野を舞台に共演した異色アクションがリバイバル。監督は初期「007」シリーズのテレンス・ヤング。1870年のアメリカ西部。日米修好の任務をおびた日本大使一行が乗る特別列車には、金貨が積み込まれていた。強盗団のリンクと相棒のゴーシュはこれを強奪するが、ゴーシュはリンクを裏切り、日本の宝刀も盗んで列車爆破を計る。日本大使の黒田は宝刀の奪還を命じられ、リンクを案内役にゴーシュを追跡する。
『レッド・サン 4Kデジタルリマスター版』
2025年1月3日(金)公開
フランス=イタリア=スペイン/1971/1時間56分/配給:コピアポア・フィルム
監督:テレンス・ヤング
出演:アラン・ドロン、三船敏郎、チャールズ・ブロンソン、ウルスラ・アンドレス
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