ゾンビ映画の夜明け
2017年7月16日、ゾンビ映画の巨匠ジョージ・A・ロメロが77歳で世を去った。長年の夢、ゆうばりファンタへの招待が叶わず、残念でならない。ロメロが何故ゾンビ映画の巨匠、ゾンビ映画の父と呼ばれるのだろうか。
ホラー映画ジャンルの一バリエーションとして、ブードゥ教にまつわるゾンビもの映画は、映画創成期の頃からあるにはあった。しかし、いま俗に言うゾンビ映画とは、すべからくロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」に端を発する。
何らかの要因で蘇った死者が、生者の肉を求め喰らいつき、襲われた者は程なくして、同じようにゾンビとなってノソリノソリと生者を襲うのである。このゾンビを倒すには、脳を破壊するしかない。これがルールとして定着し、いつしか、こうしたタイプの映画が、ホラー映画のジャンルを超越し、ゾンビ映画という一大〝ジャンル〟を形成するのである。
そのメジャー化のきっかけとなるのもまた、ロメロの〝リビング・デッド〟シリーズの二作目「ゾンビ」だ。舞台となるのは郊外の巨大ショッピングモール。そこに立て籠った人々と、外に溢れるゾンビとの決死の攻防戦。その圧倒的な、映画的面白さといったら。かくいう筆者がゾンビ映画、いやホラー映画、いやいやジャンル映画の面白さにハマッてしまったのも、他ならぬこの映画のせいである。
「ナイト・オブ~」が一般に見下される低予算、B級C級ホラーにも関わらず、カルト映画の殿堂入りしているのは、映画の背景に、当時泥沼化していたベトナム戦争によるアメリカの疲弊化が透けて見えたから。原題を『ドーン・オブ・ザ・デッド』、すなわちナイト=夜から、ドーン=夜明けを迎えた「ゾンビ」では、ショッピングモールが華麗に腐敗してゆく資本主義の権化の如く描かれ、いよいよ哲学的な深さをも持つようになった。一般的支持も拡大し、文字どおりゾンビ映画の夜明けとなったのである。
ゾンビ映画の充実期
パクリの王国、イタリア映画業界が見過ごすはずもなく、たちまち「悪魔の墓場」や「サンゲリア」等の亜流ゾンビが発生、ゾンビ映画ジャンルの裾野拡大に貢献した。いや、そもそも「ゾンビ」も日本では、イタリア側のプロデューサー、ダリオ・アルジェント作品として喧伝されたほどである。パクリのみならず、偉大なるカルトにオマージュを捧げた「バタリアン」シリーズや、まったく独自のテイストを打ち出した「ZOMBIO/死霊のしたたり」など、80年代中盤はゾンビ映画の充実期と言える。
なかでも、H・P・ラヴクラフト原作にゾンビ・ルールを掛け合わせ、類い希なラブストーリーを産み出した、鬼才スチュアート・ゴードン監督の「死霊のしたたり」はジャンル映画史に輝く傑作だ。ええぇ?!ラブストーリー?と驚くなかれ。死んだ恋人をゾンビになってもいいから蘇らせたいというサイエンティストの狂気は、紛れもない純愛であると私は見た。
ゾンビ映画とは、一概にホラー映画という訳ではない。ロメロ的ゾンビ定義をふまえれば、様々なドラマを構築出来るのがゾンビものの強みなのである。恋愛ドラマあり、社会派ドラマあり、コメディあり、アクションあり。こうしたジャンル的拡張に大きく寄与したのもまた、ロメロ映画である。
〝リビング・デッド〟シリーズの三作目、「死霊のえじき」。この映画の舞台は、もはやゾンビ対人間の比率が40万対1と化した絶望の世界。立て籠った基地での軍人vs.科学者の葛藤、対立の人間ドラマは、ゾンビの世界より恐ろしい(笑)。
80年代末から90年代には、動物がゾンビ化する「ペット・セメタリー」や、ゾンビ同士の交配によってベビーゾンビが出現(「ブレインデッド」)したり、何でもありの百花繚乱、ゾンビ錯乱状況に突入する。
21世紀にメジャー化
そんなゾンビ映画が、一気にメジャーに躍り出るのは21世紀に入っての事。これには我が国も関係している。日本が世界に誇るサバイバルゲーム、「バイオハザード」の映画化だ。ヒロインが次から次へとゾンビを殺してゆく様は一見格好いいが、ゲーム同様アクションがウリで、ゾンビは刺身のツマ。
ゾンビもの本来の、哲学的で、時に切なくさえなるゾンビ映画の醍醐味は、メジャー化するに反比例して縮小し、つまらなくなったのではないか。ブラピ主演の「ワールド・ウォーZ」のように大作でもそれは同じ。「28日後…」のように〝感染〟という概念の設定も、ゾンビものをより一般化させたとも言えるか。
ゾンビとは言わずウォーカーと呼ぶようだが、ゾンビ世界から安住の地を求めてさすらう「ウォーキング・デッド」がTVシリーズで人気をはくすのも、その証査。そして今や、あらゆるドラマにゾンビの隠し味が。その集大成的な傑作「新感染 ファイナル・エクスプレス」が韓国から出現した。なるほど、韓国は土葬が主流なのであった。納得。