2019年5月4日はオードリー・ヘプバーン生誕90周年! そんなアニバーサリーいやーを記念して、オードリーの63年の生涯を振り返ります。永遠の妖精という称号そのままに、没後も変わらずファンに愛されているオードリー・ヘプバーンですが、そんな彼女はどのような人生を送ってきたのでしょうか。(文:金子裕子/デジタル編集:スクリーン編集部)

『美しいが純真、魅惑的だが凛とした』ヒロイン役でハリウッドに旋風を

永遠の妖精……。言い古された言葉ではあるが、オードリー・ヘプバーンを形容するには、この言葉しかない。映画史のみならず、ファッション史においても多くの奇跡を起こした彼女は、いまなお色あせること無く燦然と輝いているのだから。

画像: 母エラとティーンの頃のオードリー

母エラとティーンの頃のオードリー

1929年5月に生まれたオードリーにとって、今年は“生誕90周年”の年。思えば、63歳で亡くなってから26年も過ぎている。しかし、生前のオードリーを知らなくても、『ローマの休日』や『マイ・フェア・レディ』などの旧作を初めて観て、その魅力のトリコになる若い世代が後を絶たない。そんな現象を見ていると、オードリーは確かに“伝説のスター”ではあるが、同時に昔と変わらず“現役のスター”なのだと、感嘆するばかり。

画像: ハリウッド・デビュー作「ローマの休日」はセンセーションを呼んだ

ハリウッド・デビュー作「ローマの休日」はセンセーションを呼んだ

小さな舞台や映画の端役をしていた“オードリー・ヘプバーン”が脚光を浴びるチャンスは同時期に2つ。幼い頃から習っていたバレエの才能と妖精のような佇まいのオードリー見いだし、自作の舞台『ジジ』の主役に抜擢したのは作家コレット女史だった。そして、同じ頃、ウィリアム・ワイラー監督のスタッフもオードリーを発見し、長らくペンディングとなっていた『ローマの休日』への起用を推薦した。じつは、このヒロイン役にはエリザベス・テイラーが興味を示していた。

「ローマの休日」でアカデミー賞主演女優賞を受け一躍大スターに

しかし、ウィリアム・ワイラー監督は「美しいが純真。魅惑的だが、凛とした」ヒロインを求め、オードリーを抜擢。グラマラスで華やかで肉感的なテイラーは当時の女性の美の象徴であり、オードリーは正反対だったのだが。豊かではない胸、ややエラの張ったアゴ、歯並びなど……。これらはオードリー自身が生涯コンプレックスを抱いていた“欠点”だ。しかし、それらの欠点さえチャーム・ポイントに変えてしまう“武器”がオードリーにはあった。それは深い想いを宿した黒い瞳。その愁いを帯びた輝きは観る者の心を一瞬にして射抜き、魅了し、ほかには目がいかない。

恩師でもあるビリー・ワイルダー監督とウィリアム・ワイラー監督に囲まれて

1952年に舞台『ジジ』の好演が好評のうちに幕を下ろした直後に『ローマの休日』(1953年)の撮影開始。この初のハリウッド映画主演作で、いきなりアカデミー賞主演女優賞を獲得したオードリーは、一瞬にして世界中を魅了した。白いブラウスにフレアスカート。ボーイッシュなシュートヘアはヘプバーン・カットとして大流行。後に、ビリー・ワイルダー監督は「ヘプバーンは胸の膨らみの魅力を、過去のものにした」と語っている。そう、女性の美の基準が、オードリーによってまったく変わった瞬間だった。

ジバンシーとの出会いでファッションアイコンとしても際立った魅力を発揮

そのワイルダー監督の『麗しのサブリナ』(1954年)では、ファッションアイコンの座も獲得。これ以後オードリーの衣装を担当し、終生の友となる有名デザイナー、ユベール・ド・ジバンシーとの出会いは、映画の衣装がファッションの流行を作る先駆けとなったのだ。くるぶし丈のサブリナ・パンツは日本でも大流行し、ゴージャスにして清楚なドレスもため息をそそるばかり。そのコンプレックスだというスレンダーな肢体を存分に活かしたジバンシー・ファッションは、外見ばかりかオードリーの内面の魅力も際立たせた。

余談だが、私的にはこの作品がいちばんのお気に入り。『ローマの休日』で共演したグレゴリー・ペックは「彼女は、気品と美しさ、最新ファッションと活発さ、そして洗練された魅力とひょうきんな明るさのシンボルでした」と賞賛していたが、まさにその魅力のすべてが堪能できる1作だと思う。

ジバンシーとは生涯の友人ともなった

オードリー&ジバンシーのコンビネーションが際立つ作品を挙げたらきりがない。アゴをスカーフで包む〈アリアーヌ巻き〉がブームになったビリー・ワイルダー監督の『昼下りの情事』(1957年)、『パリの恋人』(1957年)ではフレッド・アステアと軽やかなダンスも披露し、ハイセンスなミュージカルとして評価を得た。極め付きは、ロング丈のイヴニングドレスやフリンジを配した黒いウールドレスにサングラスなどがハイセンスなモードを感じさせる『ティファニーで朝食を』(1961年)。劇中のシーンを真似てニューヨークのティファニー本店前にデニッシュを手にするサングラス姿の女性が殺到するほどの社会現象を巻き起こした。

もちろん女優としての実力も認められ、『パリの恋人』で組んだ巨匠スタンリー・ドーネン監督と再コラボしたサスペンス・ミステリー『シャレード』(1963年)では大スターのケーリー・グラントと共演。翌1964年には、『マイ・フェア・レディ』のイライザ役を、舞台で演じたジュリー・アンドルーズと争って獲得。この映画の大ヒットによって、ついに“100万ドルスター”となったのだ。

過酷な戦争体験が少女時代のオードリーに与えた影響とは

キャリアは順風満帆。しかし、幼い頃からスター女優になってまで、私生活は辛い出来事の連続だった。

1929年5月4日。ベルギーのブリュッセルに生まれ。父ジョゼフ・ヘプバーン・ラストンはアイルランドとイングランドの血を引く銀行家だった。母エラ・ファン・ヘームストラは、オランダの裕福な地主貴族の娘であった。オードリーは上流階級の夫婦の間にできたひとり娘だったが、6歳の頃に父が蒸発。父は母の財産管理に失敗し親ナチスとなってロンドンに失踪したのだ。それでも、一時は父の元で暮らしバレエを習い始めたが、筋金入りの反ナチスだった母によってオランダのアルンヘムに連れ戻される。しかも、ナチスの猛攻を避けるために帰郷したオランダで「アルンヘムの激戦」が勃発。辛くもナチスの手から逃れたものの、オードリーは地下室の中で1ヶ月もの間たったひとりで暮らすという過酷な経験を強いられた。

少女だったオードリーの心は両親の離婚で深い傷を負い、さらにナチスが心と体に恐怖と絶望を刻み込んだ。そんな過酷な体験を秘めているからこそ、終戦を迎えても、女優としての道が開けても、愛にあふれた安らぎの家庭と頼れるパートナーを誰よりも切実に求めあがいていたのだろう。

待望の子供は授かったが、なかなかうまくいかなかった結婚生活

画像: 「麗しのサブリナ」などで共演したウィリアム・ホールデンとも恋が芽生えた

「麗しのサブリナ」などで共演したウィリアム・ホールデンとも恋が芽生えた

『麗しのサブリナ』で共演したウィリアム・ホールデンとの恋も含めて、いくつかの恋と破局を経験した後、1954年に12歳年上のメル・フェラーと結婚。彼の「たよりになる性格」にときめき、彼の企画で幕を開けた舞台『オンディーヌ』で共演し、オードリーはトニー賞を受賞する。その後、オードリーとメルは『戦争と平和』(1956年)で共演し、『緑の館』(1959年)ではメル監督の下、オードリーが主演を務めた。

12歳年の離れたメル・フェラーと最初の結婚を

1960年には悲願の長男ショーンを出産。しかし14年間に及んだ結婚生活は皮肉にもメルがプロデュースし、オードリーが主演した『暗くなるまで待って』(1967年)を機に破局。その後、オードリーは映画界から一旦身を引き、1969年にはヨットクルーズで知り合い、恋におちたイタリア人の精神科医、アンドレア・ドッティと再婚する。翌1970年には次男ルカを出産。

しかし結婚当初からドッティの女遊びが止まらず、悩めるオードリーは古い友人で俳優のデーヴィッド・ニヴンのアドバイスもあり、子供たちの夏休みを利用して隣国スペインで撮影された『ロビンとマリアン』(1976)で9年ぶりの銀幕復帰を果たす。1982年にはドッティとの離婚が成立。1979年製作の『華麗なる相続人』と続く『ニューヨークの恋人たち』(1981、日本未公開)で共演したベン・ギャザラとの間には恋が芽生えたこともあったが、結ばれることはなかった。

晩年ユニセフの活動に生き甲斐を見出したが63歳で生涯を閉じる

しかし、失意のうちに迎えた晩年になってやっとやすらぎを手に入れる。「自分が愛すると同様に自分を愛してくれる」相手ロバート・ウォルダースに出会い、1985年からスイスのトロシュナ村でともに暮らし始めたのだ。その幸せの中で、スティーヴン・スピルバーグ監督のたっての願いを受け入れた『オールウェイズ』(1989年)で、久々にスクリーンに復活。遺作となったその作品では、ほとんどノーメイクで当時の姿そのままに“天使”を演じたのだが、彼女がかもし出す静謐にして崇高な輝きは、“妖精”であり続けたオードリーならでは!

画像: ユニセフでの親善活動が晩年の心の支えとなった

ユニセフでの親善活動が晩年の心の支えとなった

1988年からは、1954年から活動を行ってきた国際連合児童基金(ユニセフ)の親善大使となり精力的に活動開始。世界中の不幸な子供たちに惜しみない愛を注ぎ続けた。悪性の癌が発見されたのは、最も悲惨な状況と言われるソマリアの子供たちを訪問してから数ヶ月後であった。その姿を伝えるニュース映像に映るオードリーの慈愛に満ちたまなざしが、今でも忘れられない。

そして、93年1月20日、愛してやまないトロシュナ村で、息子たちと最愛のパートナー、ロバートに看とられてやすらかな眠りについたのだ。

画像: スイスのトロシュナにあるオードリーのお墓

スイスのトロシュナにあるオードリーのお墓

2018年6月、長男ショーン・フェラーの娘でエマ・フェラーが、働く女性を支援するシンポジュームに参加するため来日した。祖母が表紙を飾ったHarper's Bazaarのグラビアで、2014年にモデル・デビューをした彼女は、人道支援活動にも積極的に取り組んでいるという。思えば、晩年のオードリーは「人生でいちばん大切な物。それは信念を持つことです。私は少なくても、それを持とうとして努力してきました」と言っていた。その祖母の言葉を胸に、その遺志を孫娘エマがしっかり受け継いで欲しいと、ファンは願うばかりだ。

孫のエマがモデルとしてデビューした

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