そして、ロシア軍によるウクライナ侵攻が止まらない今、同じへルソン州でロシア兵に立ち向かう勇気ある女性は、なぜ我々の土地に来たのか尋ね、ひまわりの種をポケットに入れるよう促した。ウクライナの土地で死んだときに花が育つように…。
ローレンとマストロヤンニ共演の反戦映画
ウクライナ情勢を受け、1970年公開の名作イタリア映画『ひまわり 50周年HDレストア版』の劇場上映、自主上映が全国に急拡大している。
ジョバンナ(ソフィア・ローレン)とアントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)は恋に落ちて結婚。が、間もなく彼は徴兵されてソ連戦線に送られる。帰りを待ちわびるジョバンナは、夫の行方不明の通知を受けとるが納得できず、モスクワへ探しに行く。しかし、そこで見たのは、アントニオと結婚したシベリアの女性と子供の姿だった…。
イタリアのネオ・リアリスモの巨匠ヴィットリオ・デ・シーカが監督した反戦映画の傑作。戦争によって悲惨な運命をたどりながらも、過去への決別を決意する妻を演じたローレンの諦めと安堵が交錯する複雑な表情と、死んでいった兵士たちを象徴する無数のひまわりの映像が、目に焼き付いて離れない。ヘンリー・マンシーニによる甘く切ないテーマ曲に乗せて描き出す悲しき愛の物語。半世紀たった今でも色褪せることなく映画史に深く刻みこまれている。
当時他国と断絶していたソ連に、必死で映画の内容を説明して撮影許可を取り付けた苦労のエピソードは有名。
行方知れぬ夫を求めて旅する女のドラマ
~スクリーン1970年10月号<鑑賞てびき>より~
※当時の表現をそのままにしております。ネタバレがあります。
初めに、ソ連ウクライナの野を見わたすかぎり埋めつくした ひまわり 畑が目を見はらせる。ひまわりの花は、太陽を追ってその首をまわすといわれている真っ黄色な大輪の花で、一本だけでもかなり強烈な感じの真夏の花なのに、それが大型のスクリーンいっぱいに遥かな地平線までビッシリと咲き乱れ、いっせいに太陽を仰いでいるさまは、まさに壮観。その印象だけでも、何かひたむきで壮絶なものが伝わってくる。
それは映画『ひまわり』の女主人公ジョバンナの壮絶といってもよいほどにひたむきな女ごころの激しさをそのままに物語っているようでもある。そしてまた、かつてこの野の周辺で戦いのために倒れ、死んでいった沢山の兵士たちの死骸の上に、かくも華やかに花を開いているとしたら、何か無気味なものが感じられさえする光景である。
場面は変ってミラノの復員局のような役所で、ソ連へ出兵したまま、戦争が終っても一向に復員する様子のない夫アントニオの消息をただしにきて、今日も何の収穫なく巨大な石造ビルの階段をションボリ帰ってゆくジョバンナの姿を写す。役所仕事のまどろっこしさ、そっけなさに噛みあって、ジョバンナの夫を待つ心、夫の生還を信じきりたい願いが燃えあがる。久しぶりのソフィア・ローレンの熱演が生々としている。彼女とは、仕事についてはもうツーカーの間柄であろうヴィットリオ・デ・シーカ監督が、カメラのうしろで、その演技をだまって、ニヤニヤと眺めているかもしれない様子が想像できるような気がする。
それに相手役がマルチェロ・マストロヤンニ。この三人は少くとも一緒に『昨日・今日・明日』と『あゝ結婚』の秀作二本を続けて作っているのだから、いまや目をつぶったままでも映画の一本や二本作れるほど、イキの合い気心の知れたベテラン・トリオである。だからこの映画もちょっとわかりすぎたキライがないでもない。その多少安易とも思えるよどみのない演出のなかで、デ・シーカ監督はこれまでの彼の仕事の総ざらえをしているようにも見える。彼が『靴みがき』『自動車泥棒』『ふたりの女』などの作品で激しくぶちまけた戦争犯罪への怒りを、ここでは彼の特技の一つでもあるコメディ・タッチをまじえ、ある時は笑わせ、ある時はまた大いに泣かせもするといった、巧緻な女性向きメロドラマ映画に仕上げているというわけである。
内容からして、この映画は三部に分けることが出来ると思うが、その第一部は、復員局から失望して帰ったジョバンナが、アントニオとのそも馴れ染めから、結婚、そして兵役忌避のため異常を装った甲斐もなくかえって苛酷なソ連戦線へ連れてゆかれるまで。
この部分には喜劇的なタッチが多い。入隊中のアントニオが休暇でナポリへ遊びにきてジョバンナと知り合い、恋をして結婚するまでを描いた部分に特にそれがある。海岸の情熱的な抱擁のうちに、ジョバンナの耳にキスしていたアントニオが彼女の耳飾りをあやまって呑み込んでしまって目を白黒したりして大いに笑わせる。そもそもナポリ女ジョバンナとミラノ近在出身のアントニオとの組み合わせに、すでにイタリア人ならすぐに判るおかしさがかくされているのではないかと思う。ナポリの女は、ソフィア・ローレンがその出身でよく演じるが、鉄火なことでは知られているらしいし、ミラノは日本でいえば京都のような都会、アントニオはさしずめ京都弁を使う優さ男という感じである。
だから、アントニオの母親は二人のスピード結婚に一種の恐れをなして、新婚旅行に帰ってきた息子と新婦にわが家をあけ渡したまま近づかない。新婦はそんなことにはあまりクヨクヨせず、母親が窓の外にだまって置いて行った籠いっぱいの卵を使って巨大なるオムレツを作って二人して食べ、卵ノイローゼにかかりかけたりする。
彼女の唯一の心配は、夫が休暇明けには、いやおうなく軍隊へ持ってゆかれること。そこでアントニオに異常なふりをさせて、精神病院へ入院させることに成功する。それなら兵役免除になるし、そのほうがまだ戦争へ持って行かれるよりはましだというわけである。それがバレるところも、イタリア的な好色コメディになっている。
第二部といえるところは、ほとんどソ連へロケーションして撮影した部分が多い。アントニオが戦死したという通告のないまま終戦となり、続々と敗戦の戦線から復員してくる兵士たちが列車で送り込まれてくるが、そのなかにいつまでたっても彼の姿は見当らない。
そのうちに、アントニオと一緒だったという復員兵にめぐり会って、彼が吹雪のウクライナ広原を行進中に行き倒れてしまったという話を聞くが、それでも彼女はまだ夫の死を信じられない。役所のにえきらぬ態度にも業を煮やした彼女は、単身ソ連へゆく許可を手に入れて、まさに夫を尋ねて幾千里といった旅に出るのである。ナポリ女ならではの情熱と壮途というところだろう。共産圏外の外国の撮影班としてソ連の地方風景を撮ったものは極く少ないと思われるのに、この映画ではそのロケーション撮影が、記録映画や、単なる背景撮影ではなく、リュドミラ・サベーリエワという第一線スタアを登場させて、ドラマを展開して見せているところが立派である。
もしかしたら、サベーリエワをマーシャの役で使うという条件で、このようなロケ撮影が可能になったのかもしれない。けれど、彼女の登場は、そういう政策的な面だけでなく、作品そのものの上でも大きなプラスになっている。少くとも私にとって、彼女の出るソ連での場面が、この映画では最も新鮮で感動的であった。
ジョバンナが、わずかな手がかりをたぐりながら、夫の消息を尋ね、尋ねしてゆくウクライナ地方の広大な戦没兵士たちの墓地の場面や、先にあげたひまわり 畑の光景も忘れがたい風景だが、そのなかでも特に印象的なのはアントニオがソ連で結ばれた若い妻マーシャと共に住んでいるその家の附近の景色だった。ぬかるみの道や、小さな庭のある北国風の平屋建の家などが、数十年前の札幌の郊外などに見られた光景とよく似ていたせいか、私はたいへんに身近かにロシアの生活のなかへはいっていったような気がした。土の匂い、庭の草花の匂いまでが匂ってくるような親しみを感じた。
その小さな庭の生垣の外にジョバンナがたたずんでいると、マーシャが家から出てきて庭先に干した洗濯ものを取り入れようとしてジョバンナとふと顔を見合わせる。その時、このふたりの女性には、何かしら不安な予感のようなものが走る。このときの清純で憂いをふくんだサベーリエワの表情がすばらしい。戦争が生んだ二人妻をこのようにして初めて会わせるデ・シーカ監督の演出も実に心憎いほどうまいものである。
家のなかへ招じ入れられてから、すでに子供まであるマーシャとアントニオとの平和な家庭生活を見ることは、そのなかにあるすべてが、ジョバンナの胸に激しい苦痛をともなってつき刺さることであった。それが労働者の家庭らしく貧しげであるだけに、そのなかで愛情だけを頼りに生きている若い妻の気持がいっそう強くジョバンナの心をしめつけるのであった。
ジョバンナは自分がアントニオへの愛一筋に生きてきただけに、マーシャのひたむきな気持がなおよく理解できるともいえよう。彼女は、マーシャと一緒に一日の仕事を終えて通勤列車で帰ってくるアントニオを駅へ出迎える。列車の駅くらい劇的な要素をたぶんに含んだ場所はないと私は思う。そこは、人々が出会う場所でもあり、また別れの場所でもあるからだろう。
この田舎駅の風景も風情があっていいが、ここで、ジョバンナとアントニオとを会わせながら、逃げるようにしてジョバンナを彼から去らせてしまう情景は思わず涙をそそられる。列車から降りてきたアントニオのところへ走り寄って何か話しているマーシャの姿を見たとき、ジョバンナはとっさに動きだした列車にとび乗ってしまう。
ここで居なおって、 私こそアントニオのほんとうの女房だよ、お前なんぞとっとと引きさがっておくれ などというセリフがマーシャに対して言えるようなジョバンナなら、苦労をして待ちあぐねた行方不明の夫をソ連くんだりまで探しにやってくるようなことはしなかったかもしれないのだ。夫と第二の妻とが、寄りそってむつまじげに話している姿を見ただけで、ジョバンナは夫とその若い妻の現在の倖せをこわすことは自分にはできないととっさに思ってしまうのである。こういう心使いこそほんとうの女の純情というのだろう。
ここまでが、二部に相当するところである。デ・シーカ監督にとって初めてのサベーリエワであるだけにローレンやマストロヤンニのように馴れた相手ではない。ということは監督にとっては新しい意欲をふるい立たせられることでもあろう。サベーリエワはそこにじっと立って、青く澄んだ瞳をこらしてこちらを見つめるだけで、そのまわりから、女の哀しみのようなものがにじみ出ている感じがする。メロドラマティックではあるが、彼女あって爽やかな哀感をたたえた部分となっている。
だが、これだけで話は終らない。ジョバンナの姿を見ただけで、アントニオの心は、忘れていた望郷の念にさいなまれはじめる。それはとりもなおさず、ジョバンナに会いたい一念でもある。喧嘩をして別れた相手ではない。結婚後数週間目、いとしい、恋しいの気持の最高潮のときに引き裂かれた相手である。しかも、やっと出会えた彼女は一言も言葉を交えずに逃げるように去って行ってしまった。雪の中に倒れて死にかけていた自分を救って看病し、生きかえらせてくれたマーシャはすばらしい女房だが、甦った望郷の愛は押さえることができない。この一時は自分の故国を忘れていた男が、ある日突然にそれを思い出し、故国と昔の女恋しさに悩む男を、マルチェロ・マストロヤンニは実にうまく演じている。
良き妻のマーシャはその夫の悩みを見かねて、故国へ旅立たせてやる。もしかしたら、二度と自分の許へは帰らないかもしれない。いや、むしろ帰らなくて当然だという夫を見送る妻の姿がまた泣かせる。こうしてアントニオはミラノへ戻ってきた。だが、彼が、故国への旅を心に決しかねたり、決心はしても旅の手続きに手間どっていたりしているあいだに時はすぎていたのだ。
しかも、ミラノへ帰ってきても、 いま帰ったよ と簡単にジョバンナを訪ねてゆける身ではない。電話でまず相手の意向などをたしかめなければならない。ジョバンナはアントニオの電話にとび立つ思いだったが、彼女の身辺の事情もちがっている。だが、ついにアントニオは嵐をついてジョバンナのアパートを訪ねる。何となく気持のちぐはぐに交差する二人。そんなあげく、隣の寝室から赤ん坊の泣き声をきかせ、ジョバンナに生じた新しい事情を一挙に理解させるのはこの種のメロドラマの常套だが、それをイヤ味にならずやってのけるのは、デ・シーカ監督の老練な手腕であろう。