SCREENの創刊77周年を記念して、今回のこのコーナーは、特別版をお届け。まさに長年に渡って本誌の顔というべき存在でもあった“永遠の妖精”オードリー・ヘプバーンをクローズアップします。1月20日に命日を迎える彼女は、SCREENの初期から現在に至るまで、読者の人気ベストテンに入り続け、1位獲得回数も圧倒的に歴代ナンバーワン。生前のオードリーに実際にインタビューしたこともある筆者に彼女の63年の生涯と人柄を振り返ってもらいましょう。(文・清藤秀人/デジタル編集・スクリーン編集部)
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オードリー・ヘプバーン プロフィール

1929年5月4日、ベルギーのブリュッセル生まれ。第2次大戦中は幼いながら反ナチスのレジスタンスもしていたが、戦後英国に渡り、バレエを学び、映画に端役で出演していたところ作家のコレット女史に発見されて、「ジジ」でブロードウェイ・デビュー。

その後、初のハリウッド映画主演作『ローマの休日』(1953)でアカデミー主演女優賞を受賞し、一躍トップスターの座に。

俳優メル・ファーラー、医師アンドレア・ドッティと結婚し、それぞれの間に男の子が誕生する。晩年はユニセフの活動に勤しんでいたが、1993年1月20日、結腸がんのため63歳で死去。

どんな時でもユーモアを忘れないのが彼女のライフスタイル

オードリー・ヘプバーンが突然の病に倒れ、63歳の若さでこの世を去ってから31年。ユニセフ親善大使として訪れたソマリアから帰国した直後の訃報だった。月日の流れは早いものだ。

1987年12月、2度目の来日を果たしたオードリーの目的は、ユニセフ主催の慈善コンサートでユニセフ事務局長の補佐役を務めるためだった。

その際、インタビューする機会に恵まれた私は、オードリーとユニセフの繋がりはスルーして、女優復帰の可能性とスイスでの生活ぶりについて質問を投げかけたのだが、オードリーは少し失望しつつも、お土産に手渡した扇を首元であおぎながら、「ねえ、12月なのに変じゃない?」と言ってたくさんの取り巻きを笑わせたものだった。

オードリーとユニセフの出会いは第二次大戦終結時のオランダまで遡る。ナチス占領下で栄養不足から来る様々な弊害に苦しめられたオードリーは、オランダ解放と共に街にやって来たユニセフの前進、UNRRAの隊員たちが配給する支援物資の恩恵に預かった最初の1人だったのだ。

以来、彼女はいつの日かユニセフの慈善活動に参加したいと願っていたのである。そして、扇の一件でも分かるように、どんな状況でもユーモアは忘れないというのがオードリーのライフスタイルだった。

戦争を間近に感じながらも見事に生き抜いたオードリーは、ロンドンに移住してモデルやダンサーの仕事を掛け持ちしながら、やがて、ハリウッドデビュー作『ローマの休日』(1953年)のヒロイン役を手にする。

決め手になったのは、テストが終わった後も回り続けるカメラを覗き込むオードリーの無邪気な仕草と、もう一つ、戦時下のオランダでレジスタンス活動に協力した時の体験を聞かれた時の答えだった。

「活動を知られることはなかったのですか?」と聞かれた彼女は、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、「知られるものですか」と応じて、試験官を魅了してしまう。死と隣り合わせの日々をユーモアと共に振り返ることができる強さ。それが決定打になったのだ。

こうして、スターへの階段を一気に上り始めたオードリーだが、幼い頃から目指したバレリーナの素養はあったものの、演技経験と言えばロンドン時代に出演した数本のコメディ映画のみで、巨匠たちとの現場が演劇学校だったと本人も後述している。

特に、『ローマの休日』の監督、ウィリアム・ワイラーと『麗しのサブリナ』(1954年)のビリー・ワイルダーは、オードリーの中にある天性の感性と真摯な人柄を演技に転嫁させた初期の功労者と言えるだろう。

また、オードリーからファッションアイコンとしての魅力を引き出したスタンリー・ドーネンの功績も大きい。シンデレラ物語を服で綴る『パリの恋人』(1957年)、同じくジバンシィのミニマムなコートやスーツがパリの風景によく映えた『シャレード』(1963年)、オードリーがプレタポルテに手を通した『いつも2人で』(1967年)、以上の3作品は、どれもオードリーマニアにとっては外せないドーネンによるファッションムービーだ。

監督だけではない。共演者に恵まれたこともオードリーにとってラッキーだった。

無名のダンサーだったオードリーに自分と同等のビリングを与えるべきだと主張してくれた『ローマの休日』のグレゴリー・ペック、新人のオードリーを絶妙なさじ加減で取り囲んだ『麗しのサブリナ』のハンフリー・ボガートとウィリアム・ホールデン、ダンサー志望だったオードリーの夢を実現させた『パリの恋人』のフレッド・アステア、恋の年齢差を果敢に飛び越えて見せた『昼下りの情事』(1957年)のゲイリー・クーパー、シルバーヘアにステンカラーコートでジバンシィ尽くしのオードリーに対抗した『シャレード』のケーリー・グラントetc。

1990年のゴールデングローブ賞のセシル・B・デミル賞を受賞した際、壇上に上がったオードリーは、『ほんの数人ですが』と断った上で、出演作品全てに関わってくれた数十人に上る監督と共演者の名前を一度も噛むことなく、早口で紹介して喝采を浴びる。

女優活動を控えてからもファッションアイコンとして脚光を浴びる

私生活では生涯、家庭最優先を貫いた。それは、オードリーが6歳の時にベルギーのブリュッセルにあった生家から突然姿を消した父親、ジョセフへの渇望感と喪失感が原因だったかもしれない。

それにしても、メル・ファーラーとの間に設けた長男、ショーンとはできるだけスイスの自宅で共に過ごし、ショーンが通う寄宿学校のお休みに合わせて仕事をスケジューリングし、2人目の夫、アンドレア・ドッティと離婚後もわざわざ道の向かい側に家を購入して次男、ルカにできるだけ両親が揃う時間を与え続けるなど、子供たちに対して異次元の配慮を惜しまなかったオードリー。

2019年5月、TV番組の取材で訪れたローマの自宅では、オードリーが愛した美しい庭と愛犬との生活がルカ一家によって受け継がれていて、心が和んだものだった。

1989年の『オールウェイズ』を最後に映画に再び出ることはなく、ユニセフの活動に没頭したオードリーだが、前後して、俳優として、また、ファッションアイコンとしての彼女にスポットが当たる。

1992年のファッションデザイナー協会賞授賞式で功労賞をラルフ・ローレンに手渡したのはオードリーだったが、その時、ローレンは「みんな見て! 遂に僕のお姫様を手に入れたよ!」とスピーチして、長年熱烈なファンだったことを人々にリーク。

しかし、デザイナーならユベール・ド・ジバンシィこそが最も重要な人物だ。『麗しのサブリナ』でカクテルドレス他数点をオードリーに提供して以来、デザイナーとミューズの関係を超えた友情を紡ぎ続けたこの2人。

1983年、オードリーが初来日を決意した理由は、東京と大阪で開催されたジバンシィ30周年の記念イベントに出席することだったし、病に倒れたオードリーのためにプライベートジェットを提供したのがジバンシィだった。その時のオードリーの感謝の言葉が素敵すぎる。

曰く、「ユベール、魔法の絨毯をありがとう」。

63年の生涯を文字通り駆け抜けたオードリー・ヘプバーン。俳優としての魅力、信念を貫いた生き方、巧みな服選びは、今も女性たちの憧れの対象だ。

そして、今、戦争によって子供たちの命が失われている現実を目の当たりにする時、生前「この世の中で子供より大切な存在が思い浮かばない」と語ったオードリーが、何を思い、何を語り、どう行動したかを見てみたい気もする。

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