成田陽子
ロサンジェルス在住。ハリウッドのスターたちをインタビューし続けて40年。これまで数知れないセレブと直に会ってきたベテラン映画ジャーナリスト。本誌特別通信員としてハリウッド外国人映画記者協会に在籍。
母の病気が完治した時、ポール・マッカートニーに“あるお願い”の手紙を
『哀れなるものたち』(2023)の赤ん坊の頭脳を持つ成人女性を怪演して堂々のオスカー主演賞を受賞したエマ・ストーン。大泣きの受賞スピーチが又、この映画の延長のようでエマの幼い少女のような天性の感性に会場の人々も共に涙を拭っていたのはまだ2か月前のこと。『ラ・ラ・ランド』(2016)で初めてオスカー主演賞を受賞してから7年目の再びの快挙である。
女優志願の塊のような少女時代だったそうで、努力と執念でここまで前進した来たと言えよう。
「生まれた時から演技をしていた!と毋に言われる程の天然の子役の子供だったのよ。小学校では色んな劇で主役を獲得し、15歳の時にアリゾナからハリウッドにやって来て持ち前のやりたいパワーでオーディションを勝ち抜いて来たのだから。でもその裏ではもの凄くシャイで外に行きたくない症状も持ち合わせていて、それを跳ね飛ばすには“演技”をすると良いと発見したわけ」
と大きな目を剥いて喋るエマに最初に感心したのは『小悪魔はなぜモテる?!』(原題:Easy A)(2010、日本はDVD公開)の会見後の夕食のテーブルを回っては「どう? おいしい? これからもよろしくね!」と懸命に自己PRに努めていた時。ピンクっぽいドレスを着て愛嬌たっぷりに記者達に挨拶する姿に既に芸能界の厳しさを味わった新人の切なさと痛々しさが感じられた。
「アメイジング・スパイダーマン」シリーズでぐんと人気が上がり、共演のアンドリュー・ガーフィールドと実生活でもロマンスが展開した頃になるとガードが固くなり(お決まりのコース)「映画以外のことは喋りたくないの」一辺倒となったが、2015年に破局を迎えると再びおしゃべりなエマに戻って、ブロードウェイの舞台に出たり、映画での役作りもぐんと大人びたものになって「(私生活の)恋は女優のコヤシ」を地で行ったようだった。
ずっと付き添って来た母親が乳ガンになり2年後に完治した時、エマは、
「母が大好きな“ブラックバード”を歌ったポール・マッカートニーに勇気を出して手紙を書いたの。お願いですからガンを克服した母の為に2羽のトリの脚のスケッチを送って下さいって。何と彼からスケッチが送られて来て、母とわたしはその図をもとに手首におそろいのタトゥを彫ってもらったのよ。わたしたちの大事な記念なの」
と限りなく幸せそうに話してくれたのを思い出す。
トレードマークのエマのドスの効いた嗄れ声は赤ん坊の時に毎日、長時間、半年あまり大声で泣きわめき、喉に傷がついたため(疝気)だそう。
髪を赤く染めたのはセス・ローゲンがほめてくれたから
17年前の『スーパーバッド 童貞ウォーズ』(2007)が先日日本で初公開されたそうだが、この映画でエマの喜劇的才能がしっかりと見て取れる。
「周囲の俳優たちがおかしなことばかりするのでもう笑いっぱなしでセリフが途切れてばかりいたのよ。喜劇女優として、ルシル・ボールを断然尊敬している。『私はおかしな女優ではないのよ。それどころか、私はとっても勇気を持ってた女優だと信じています』という彼女の言葉が最高でしょう。
他にはクリステン・ウィグとかティナ・フェイの『サタデー・ナイト・ライブ』の喜劇的才能には感心しっぱなしだった。共演のセス・ローゲンが赤い髪の私がとても良いというのでもともとは金髪だったのを赤く変えてそれ以後、赤髪が私のイメージとして落ち着いたわけ」
薄いエメラルド・グリーンの瞳と赤い髪がまさに完璧にマッチして、極上の色彩効果を上げていた。
喜劇俳優のデイヴ・マッカリーと2020年に結婚、女の子が生まれている。夫君と共演する企画も上がっているが、お次は再びヨルゴス・ランティモス監督による『憐れみの3章』(2024)という映画が待機している。
彼女の繊細な感性が役から滲み出て、晴れてのオスカー受賞となったのである。