(文・秦 早穗子/デジタル編集・スクリーン編集部)
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 アラン・ドロンの記事をスクリーンに初めて書いたのは、65年も前の事。彼はすでに日本で注目され始めていたが、決定的人気はなかった。現在の読者の方々は、まだ生まれてはおられなかったろう。彼より4歳年上の私がお別れの言葉を書くとは、夢にも考えていなかった。正直言うと、何年か前、ドロンが入院した時、新聞社から一文を用意してほしいと言われたし、2年前にはフランスの通信社が、ドロンについて取材してきた。健康がすぐれないのだと推察はしていた。

 1950年代末、洋画配給会社のパリ出張社員として、映画の選択・買い付けの仕事をするようになったのは、全くの偶然からだった。その時、私たちと同世代の映画監督の作品を選びたいと、秘かに考えた。

 第1作目に選んだのが『勝手にしやがれ』。20分の未編集のフィルムを見てくれないかと、プロデューサーのジョルジュ・ド・ボガ—ルに言われた。彼は作品の出来上がりが検討つかず、不安になっていた。私は、即決した。今考えると、あまりにも大胆であったのは確かだが、それが若さというもの。この話はパリの映画界の一部では、かなり有名になった。知名度の高い監督作品ならいざしらず、ジャン=リュック・ゴダールは無名だった。1959年7月のことである。

 大物プロデューサーのアキム兄弟から、20分の未編集の映画があるので見てほしいと、8月に電話があった。だが2作目の映画については、そう簡単に事は運ばなかった。買い付け金の問題もあるが、若い私は、ベテランの映画人に騙されていると、パリ本社の重役は言う。見たのは海の場面だけで、それだけで選ぶのは危険だと。最初の作品は自動車を疾走させるだけではなかったか?そこで、考えた。目玉のひとつになるかもしれないアラン・ドロンに会ってみよう。

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 ジャン=ポ—ル・ベルモンドを醜い男と言い、いわゆる美男子のアラン・ドロンをどんな風に宣伝するか。それまでの彼の演技は、甘いだけで取るにたりない。この目で、じかに確かめ、可能性を探ってみたい。当時の取材の多くは、先ず写真を取材相手と一緒に撮ることに、主眼が置かれていた。写真さえ撮れば絵になり、証拠になるからだった。

 そこで明治時代、政商と言われた高田商会の孫娘で、木村伊平やカルチエ・ブレッソンの弟子である高田美にカメラを、私の代理人の秘書、のちにアニェス・ヴァルダの映画製作にかかわるエディット・テルザを同伴する手配をした。こんなことは、読者の皆さんには関係ないだろうが、大切なポイントだった。

 初めはスイスのロミー・シュナイダーの別荘でとドロンは提案し、次にパリ左岸のアパルトマンへ変更される。ドロンとロミーの一家とは、この頃から揉めていた、本人が言ったのだから、正直な人だと思ったものだ。ロミーのように、すでにスターで、名門俳優一家の娘が、どこの出かも分からぬ無名の若者に利用されるのを、家族は阻止した。ドロンの方も、ロミーの金を自分の事業に回すような、彼女の義父に対して、疑ってもいたろう。

 それはさておき、私の取材は人気の出始めたスターとの気軽な取材ではなかった、その内容を別なかたちにして、スクリーンに掲載したのであった。彼は仕事について話した。流行りの〝〟の一派からは、お声がかからないのを承知して、従来のオーソドックスな巨匠たちの映画へ出ることに、道を求めた。まずイタリアの大物ルキノ・ヴィスコンティと2本。さらに、再びルネ・クレマンと組み、最後の夢は、やはり、ハリウッドへ行くことだった。

 彼の目は、何も見ていない、自分の未来だけを見てた。透明な薄い青い瞳は、なぜか暗くて、私はぞっとした。同時にそこに、新しいスターが生まれる予感を感じた。

 その後の一生は、いろいろだったろう。人気が出てからのドロンには、もうあまり興味はなかった。『太陽がいっぱい』が1960年、日本で公開されると、爆発的盛り上がりになる。その折、ロミーと一緒に来日したがったが、これは遠慮した。スターという地位が確立するまでは、観客との関係は、文字通り、スクリーンという映写幕の仲介に委ねるべきだから。『太陽がいっぱい』が、ドロンの最高の作品とは思わないが、60年代、戦争を体験し、精神的にも肉体的にも、腹をすかしていた若者の姿は、当時の日本の若者に相通じる共通点があった。 

 1963年、初めて日本へやってきたドロンは人気スターであるばかりか、ビジネスマンでもあった。それからのドロンは大成功を収めたものの、その陰では危ない橋も渡ったかもしれないが、今は静かに、お眠りください。

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