新しい自分に生まれ変わるための葛藤の過程で映画が生まれた
──本作は、ジョージアの2020年のベストセラー小説「BlackbirdBlackbird Blackberry」が原作ですが、なぜこの小説を映画化しようと思ったのでしょうか。
原作者のタムタ・メラシュヴィリはジョージアの有名なフェミニスト作家で、私が尊敬する活動家でもあります。彼女の作品は女性に焦点を当てたものが多く、異性愛主義や家父長制社会の構造に果敢に挑戦していました。彼女は力強く破壊的な物語で繊細なニュアンスを余すところなく描き、登場人物の心情や社会、政治的現実をエレガントに文脈に落とし込むのです。
この小説は2021年春、タムタの新作として読みましたが、個人的にも政治的にも私に語りかけてくるものがありました。小説は主人公エテロの一人称単数形で書かれているので、読者はエテロの視点からその日常を追い、彼女の心に触れることになりますが、彼女の中には、矛盾と革命に満ちた世界そのものがあります。主人公エテロから花開く普遍性に魅了され、ぜひ映画化したいと思いました。
私はこの小説が持つ“親密さ”を映画でも保ちたいと思い、様々な工夫を凝らしました。エテロが経験する日常は、誰にでも当てはまる普遍的なものだからです。
──特にエテロというキャラクターの存在感が素晴らしいですね。
エテロは両親と兄を亡くしましたが、どうにか1人で立ち直り、結婚したいと思ったことは一度もありませんでした。彼女は日用雑貨店を営みながら、ひとりで気楽に過ごせる生活に満足して、慎ましく淡々と暮らしています。
ご近所との付き合いはあまりなく、清廉なイメージを保つことで、村の噂話に巻き込まれないようにしています。それでも長年の経験から、自由でいるためにはどう振る舞うべきかが直感的にわかっているので、気が進まないことでも必要であればやります。ある意味、二重生活のようなものです。
しかし、ムルマンの登場によって、エテロが慎重に構築した世界秩序はあっさりと崩れてしまいました。
──本作は48歳であるエテロの「性の目覚め」も一つのテーマですね。
中年期におけるセクシュアリティの発露も、私が原作小説に惹かれた点です。エテロは48歳で初めて肉体関係を持ちますが、相手のムルマンは既婚者。この禁断の関係が村の人たちに知られれば、大変な目に遭うでしょう。
しかし、危険だとわかっていながらエテロは本能に逆らえません。この関係が彼女に“新しい自分”を経験させるからです。
エテロというキャラクターの中心に、“身体”と“セクシュアリティ”があります。彼女は恥も外聞もなく性の快楽に真っすぐに飛び込み、他の女性が決してしないようなことをします。彼女は内に秘めた官能性を自然に解放しました。
異性愛主義社会では身体が“商品化”され、女性は年齢を重ねるにつれ、“期限切れ”とみなされます。しかもエテロは従来の“美”の基準を気にせず、少し太り気味で曲線的な身体であるものの、その豊満な体、胸、ヒップを愛しており、魅力的だと思っています。
エテロのそういった姿勢はまさに“革命的”です。エテロのようなセクシュアリティと身体はスクリーンでは描かれてきませんでしたが、エテロにはエテロの美しさがあります。本作を観ているうちに、エテロが太っているとか痩せているとか、そんなことは気にならなくなってほしいと思います。
──エテロやムルマンなど、これまで映画の中心に描かれることがなかった人物を物語の中心に据えています。監督のバックグラウンドが影響しているのでしょうか。
私はジョージアで生まれ、女性は一歩下がって控えめであれと育てられました。それが不満であっても受け入れるしかなかったのですが、23歳でジョージアを離れ、自分の思いを主張してもいい場所があると知りました。それがアートだったのです。
しかし、それまでの“教え”を捨て去り、新しい自分に生まれ変わるのは簡単なことではありませんでした。そんな私を助けてくれたのが映画とストーリーテリングです。これらによって人生に欠けていたロールモデルを見つけたり、作り出したりすることができたのです。見えない物語を見えるようにし、聞こえない声を聞こえるようにし、疎外されたもののための場所を作る。つまり、新しい自分に生まれ変わるための葛藤の過程で映画が生まれたのです。
──エテロが村の女性たちの嫌味や憐れみにも負けず、自分自身の幸福を貫こうとする姿が印象的です。エテロはフェミニストなのでしょうか。
エテロは自分で気づいてはいませんが、「生まれながらのフェミニスト」であり、性差別的な社会や文化からの解放を願う私たち一人ひとりの声を体現する存在です。封鎖的な村で「ひとりもの」を貫く彼女は、自分の自由のために努力し、社会構造や周囲の人々とも闘わなければなりません。実は、ムルマンも家父長制に閉じ込められ、社会が求める役割を果たさなければならないことに苦しんでいたのです。
エテロは大学に進学したり、女性の権利や人権問題について学んだりしたわけではありませんが、一人の女性として「自分にとって何が大切か」ということを自然に理解しています。
エテロのような人物が映画の主人公になることは珍しいかもしれません。しかし、私たちの身の周りには確実にいます。その事実を描きたかったのです。
──撮影ではどのような点にこだわりましたか。
私は映像的言語が持つ力を信じています。登場人物たちの感情を言葉で説明するのではなく、観客に体験してほしい。この物語に必要な“親密さ”と“エロティックな緊張感”を生み出すために、普通はスクリーンに映らない身体の形や質量を表現する必要がありました。撮影監督のアグネス・パコズディとは短編、長編を問わず、すべてのフィクション映画で一緒に仕事をしてきましたから、映画のカギとなる映像的言語を共有しています。本作ではリハーサルを重ね、慎重かつ繊細に撮影し、共感と優しさでその身体を表現し、質感を強調することに細心の注意を払いました。
あえてフォーカスを寄せて細部を撮ることはしていません。登場人物や彼らが織りなす物語そのものを観てほしいので、登場人物から一歩引いて、彼らの身体そのものや身振りを映します。姿勢やちょっとした動き、視線が登場人物の魂を知るカギなのです。特にエテロとムルマンのラブシーンでは、ふたりの素敵な空気感を感じてもらいたいと思い、愛を奏でるふたりを美しく撮るように心掛けました。
──エテロ役のエカ・チャヴレイシュヴィリの演技が素晴らしいですね。
原作を読んだとき、エテロを演じられるのは、エカ・チャヴレイシュヴィリしかいないと直感しました。エカとは前作『WET SAND』で一緒に仕事をし、彼女の厳しさ、繊細さ、演技へのアプローチに魅了されたのです。
エカが演じるエテロを110分間観ることを想像すると、ワクワクしました。エカのカリスマ性、存在感、プロフェッショナリズムを思えば、それは当然のことです。彼女ほど微妙なニュアンスを表現できる繊細でパワフルな俳優は他にいません。
──独身の暮らしを愛するエテロにとってムルマンはどんな存在だったのでしょうか。
「性の目覚め」を経験した彼女にとって、相手はムルマンでなくてもよかったのかもしれません。もちろん、エテロはムルマンとの関係を心から喜んだ瞬間がありましたし、彼がトルコに行かなくてはならなくなったと知り、とても悲しみました。エテロがムルマンと過ごす時間の中で、彼に対して抱いた気持ちに嘘はないと思います。そうでなければあのような展開にはなりませんから。
それでもエテロには「自分の気持ちに忠実に生きる」というポリシーがあり、最終的には自分の決めたことに突き進む選択をしたのです。
<プロフィール>
監督:エレネ・ナヴェリアニ Elene Naveriani
1985年ジョージア生まれ。現在はスイス在住。2003年、絵画専攻でトビリシ国立芸術アカデミーを卒業。ジュネーブ造形芸術大学でキュレーションについて学んだ後、映画を学び始める。卒業制作の「GOSPEL OF ANASYRMA」(2014)が、高く評価された。初長編「I AM TRULY A DROP OF SUN ON EARTH」(2017)はロッテルダム映画祭で初上映され、数々の賞を受賞。短編「RED ANTS BITE」(2019)がスイス映画賞最優秀短編映画賞にノミネート。短編ドキュメンタリー「LANTSKY PAPA’S STOLEN OX」(2018)はベルフォール国際映画祭で最優秀短編映画賞を受賞するなど国際的評価を受けた。2021 年、2 作目の長編映画「WET SAND」が同年にロカルノ国際映画祭で世界初上映され、最優秀主演男優賞を受賞した。
『ブラックバード、ブラックベリー、私は私。』
2025年1月3日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、アップリンク吉祥寺他にて順次公開
監督:エレネ・ナヴェリアニ
原作:タムタ・メラシュヴィリ「Blackbird Blackbird Blackberry」
出演:エカ・チャヴレイシュヴィリ/テミコ・チチナゼ
原題:Shashvi shashvi maq'vali 英題:Blackbird Blackbird Blackberry
2023 年/ジョージア=スイス/カラー/ジョージア語/110分
配給:パンドラ
(C) -2023 - ALVA FILM PRODUCTION SARL - TAKES FILM LLC