柿の赤い色が作品を象徴
──本作のシナリオは田中陽造さんが40年以上前に書かれたもので、多くの監督たちが映画化を熱望しながら長い間実現することができなかった、「知る人ぞ知る」幻の脚本だったと伺っております。企画が動き出すきっかけからお聞かせください。
6~7年前のことだと思いますが、エンジンフィルムの安田匡裕さんか、相米慎二監督の法事で陽造さんや前作『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』で製作に入ってくれた山田美千代さんと顔を合わせました。そのときに、この作品の脚本の話になったのです。
陽造さんは「このまま静かに終わるんじゃないか」とおっしゃいましたが、こんなに素晴らしい脚本が埋もれてしまうのはもったいない。何とかならないかと話したことから、少しずつ企画として動き出しました。
ただ、40年前に書かれたままでは今の時代に受け入れられません。長谷川泰子、中原中也、小林秀雄の3人の青春に絞ってシナリオの改変を始めたのですが、これにけっこうな時間が掛かりました。
──キャスティングに関してはいかがでしょうか。
キャスティングもその頃から取り掛かりました。有名なのは中原中也と小林秀雄ですが、その間にいる長谷川泰子は天才と天才に惚れられて、2人の間で揺れ動いた女性です。泰子を誰が演じるかがこの作品にとって肝要。広瀬さんがかなり早い段階で本を読んで、「ぜひやりたい」と快諾してくれたのです。小林秀雄を演じた岡田君も同様でした。2人にはタイミングを待ってもらい、その間に中原中也を探して、何十人もオーディションをしました。
──中原中也のキャスティングに難航したということでしょうか。
最近の俳優は自分なりの表現を形にするまでに時間が掛かっていて、30歳くらいでやっと一人前ということが多い。しかし中也は17歳ですから、できれば20代前半の人を見つけたい。しかも中也は小柄でしたから、そういった条件に適う俳優がなかなか見つからなかったのです。
それが土壇場になって、Netflixオリジナルドラマ「First Love 初恋」に出演していた木戸大聖君の名前が挙がり、オーディションをしたところ、目の輝きがすごくよかったのです。彼のスケジュールはかなり詰まっていましたが、何とか調整して参加してもらいました。
──広瀬さん、岡田さん、木戸さんにはどのような演出をされましたか。
3人とも事前に脚本を読み込んで、役どころをしっかり理解していました。木戸君は自ら山口県にある中原中也記念館に行って、中也の軌跡を辿って、自分なりの中也像を作ってきたのです。ですから「この人物はこうだから…」と論理的に説明して細かく演出することはしていません。ちょっとした示唆をするだけで、それが自分の役にとってどのような意味を持つかを彼らはきちっと理解して、演技に取り入れることができるのです。
順撮りしたので、撮りながらでき上っていった部分があったのでしょう。終盤で泰子に「さよなら」というセリフがありますが、その瞬間に見せた広瀬さんの表情にこの作品のすべてが結実しています。
──まだ若い広瀬さんが泰子を妖艶に演じられたことに驚きました。
今までは若くてはつらつとした現代的な感覚の女性を求められてきたのでしょうね。この作品の時代性もありますが、泰子は女性が持っている深い情念や男性を惹きつける底知れない魅力が必要な役です。広瀬さんはそういったものを元々持っていて、今回はそれがぴったりはまり、みなさんを驚かしたのだと思います。精神的に不安定になっていくという微妙な演技も求められますが、それもしっかり演じ切ってくれました。
広瀬さんに何か伝えると「はい、わかりました」としか言わなくて、何度この言葉を聞いたかわかりません。先日、前田哲(監督)と会ったときに、現場の様子を聞かれたので、その話をしたところ、自分の作品のときにはそういう返事はなかったと言っていました(笑)。
──作品の中で、中也と泰子が柿を、小林がリンゴを丸かじりしていました。完熟した柿の濃厚さ、リンゴのしゃりっとした歯ごたえがそれぞれの人物像と重なる気がしました。
その発想はなかったのですが、面白いですね。
柿の赤い色はこの作品を象徴しています。それは中也が登場するときに差していた傘の赤、中也が母親から編んでもらった手袋の赤と全体を通して繋がっています。
──冒頭で、中也が赤い傘を差して歩いているシーンを俯瞰で移動しながら撮った後、泰子が屋根の上の柿を拾うところを外から捉えたカメラはそのまま下りていき、出掛けようとする泰子と帰ってきた中也が顔を合わせるところまでをワンショットで映しています。特機を使った大掛かりなカメラワークに引き込まれましたが、これにはどのような意図があるのでしょうか。
映画は冒頭5~10分で、こういう風に見てほしいということを観客に示すことが必要だと考えています。
泰子が屋根の上の柿を拾いあげて部屋の中に入ると、カメラは外を捉えたまま下がっていき、身支度を済ませた泰子が玄関から出てきたところを映します。泰子が身支度をして、階段を下り、玄関で履物を履くところをカメラで追うこともできましたが、敢えてそうしない。カメラがゆっくり下りてくることで、この作品のリズムを示しました。
もう1つ、京都の街並みの瓦屋根の美しさ、特に屋根瓦が雨に濡れたときの美しさを見せたかったのです。この作品ではすでに屋根瓦が全部濡れていますが、グレーの瓦屋根にぽつぽつと雨が落ちてきて、段々黒くなっていくのは本当に美しい。そういった日本の風景の美しさはどんどん失われてきてい
ます。
──要所要所で雨が使われていたので、ラストの晴天が印象的でした。
それはシナリオ通りなのですが、ラストシーンの撮影は天候に恵まれました。あれがどんよりしていたら違う映画になってしまったと思います。映画の神様っているんですね。
──これからご覧になる方にひとことお願いします。
3人の登場人物がそれぞれ、時代を生き抜こうとしています。彼らに共感してもいいし、「こういうところは嫌だな」と思ってもいい。3人がそこに存在していたということを感じてもらえたらうれしいです。
<PROFILE>
監督:根岸吉太郎
1950年8月24日生まれ、東京都出身。
早稲田大学第一文学部演劇学科修了後、日活に入社。78年『オリオンの殺意より、情事の方程式』で初監督。81年『遠雷』でブルーリボン賞監督賞、芸術祭選奨新人賞を受賞し、05年『雪に願うこと』で芸術選奨文部科学大臣賞、第18回東京国際映画祭の4部門受賞をはじめ、多くの映画賞を獲得する。09年、映画『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』では、モントリオール世界映画祭 最優秀監督賞受賞。10年には紫綬褒章を受章。主な監督作品に『狂った果実』(81)、『探偵物語』(83)、『ひとひらの雪』(85)、『ウホッホ探検隊』(86)、『永遠の1/2』(87)、『絆-きずな-』(98)、『透光の樹』(04)、『サイドカーに犬』(07)などがある。
『ゆきてかへらぬ』2月21日(金)より、TOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開!
<STORY>
京都。まだ芽の出ない女優、長谷川泰子(広瀬すず)は、まだ学生だった中原中也(木戸大聖)と出逢った。20歳の泰子と17歳の中也。どこか虚勢を張るふたりは、互いに惹かれ、一緒に暮らしはじめる。価値観は違う。けれども、相手を尊重できる気っ風のよさが共通していた。
東京。泰子と中也が引っ越した家を、小林秀雄(岡田将生)がふいに訪れる。中也の詩人としての才能を誰よりも知る男。そして、中也も批評の達人である小林に一目置かれることを誇りに思っていた。男たちの仲睦まじい様子を目の当たりにして、泰子は複雑な気持ちになる。才気あふれるクリエイターたちにどこか置いてけぼりにされたようなさみしさ。
しかし、泰子と出逢ってしまった小林もまた彼女の魅力に気づく。本物を求める評論家は新進女優にも本物を見出した。そうして、複雑でシンプルな関係がはじまる。重ならないベクトル、刹那のすれ違い。ひとりの女が、ふたりの男に愛されること。それはアーティストたちの青春でもあった。
<STAFF&CAST>
監督:根岸吉太郎
脚本:田中陽造
出演:広瀬すず、木戸大聖、岡田将生、田中俊介、トータス松本、瀧内公美、草刈民代、カトウシンスケ、藤間爽子、柄本佑
©︎2025「ゆきてかへらぬ」製作委員会
配給:キノフィルムズ