70年代を代表するヒット映画『ジョーズ』でスティーヴン・スピルバーグが新世代のスーパーディレクターとして注目されたころ、実はスピルバーグの周囲には彼とほぼ同年代の将来を有望視された若い監督たちが揃っていて、互いに協力しあう構図ができあがっていました。その後のハリウッドの在り方を大きく変えた彼らの特徴とは何か?そして今も続く固い絆を再確認しておきましょう。(文・米崎明宏/デジタル編集・スクリーン編集部)
カバー画像:Photo by Ron Galella, Ltd./Ron Galella Collection via Getty Images

映画学校で理論や歴史、技術を学んだ世代が初めてメジャーの立場に

画像: アメリカ映画遺産保存のためのフィルム財団設立発表記者会見に揃って出席したルーカス、スピルバーグ、スコセッシ Photo by Ron Galella, Ltd./Ron Galella Collection via Getty Images

アメリカ映画遺産保存のためのフィルム財団設立発表記者会見に揃って出席したルーカス、スピルバーグ、スコセッシ
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1975年、『ジョーズ』が大ヒットした時、映画のプロも一般のファンも、このとんでもなく面白い大ヒット映画を作ったのが、まだ20代のスティーヴン・スピルバーグという若い監督だということに驚いた。人食いザメを題材にしたパニック・アクションで、アメリカで空前のセンセーションを呼んでいるという噂が先行し、全米公開から半年後、ようやく日本でも上映が始まると、こちらでも特大ヒットとなりスピルバーグの名前は一躍世間に広まった。そして彼の演出は映画の教科書に載っているようなテクニックに満ちていて、ベテランが撮ったようにも見えた。彼は博識の映画マニアで、辞書のような知識から、例えばアルフレッド・ヒッチコックのような撮影方法を選択、実行する才能を備えていたことがますます映画の専門家や観客を驚かせた。

だがスピルバーグだけでなく、実は70年代のハリウッドには映画の歴史や技術を徹底的に学んだ若手たちが何人もいて、この後、彼らが話題作、ヒット作を連発して、ニューハリウッドを形成していく。しかも彼らはみな友人関係にあり、それぞれの作品に援助をしたり、支えあったりしていたのだ。初期スピルバーグを語る時、彼らの存在もまた忘れることはできない。

画像: チャイニーズ・シアター前にそろって手形足形を刻んだスピルバーグとルーカス Photo by Getty Images

チャイニーズ・シアター前にそろって手形足形を刻んだスピルバーグとルーカス
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その顔触れを挙げてみると、『ゴッドファーザー』で一足先に出世したフランシス・フォード・コッポラ(39年生まれ)を兄貴分に、『アメリカン・グラフィティ』の後、『スター・ウォーズ』(ここでは「エピソード4/新たなる希望」を指す)を生んだジョージ・ルーカス(44年生まれ)、『タクシードライバー』でカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞したマーティン・スコセッシ(42年生まれ)、『キャリー』が大ヒットとなったブライアン・デ・パルマ(40年生まれ)、スコセッシ&デ・パルマの脚本家としてまず名を馳せたポール・シュレイダー(46年生まれ)、『ビッグ・ウェンズデー』などの監督でコッポラの『地獄の黙示録』などの脚本家としても知られるジョン・ミリアス(44年生まれ)、そして最年少のスピルバーグ(46年生まれ)という面々だ。70年代にまだ20〜30代だった彼らのことをニューハリウッドの“ムービー・ブラッツ(映画小僧たち)”と呼ぶ者もいれば、“ハリウッドの第9世代”(『イントレランス』のD・W・グリフィスを第1世代として、そこから数えて9世代目に当たる)と呼ぶ者もいた。

彼らはほぼ40年代生まれで、映画製作のシステムや演劇、小説、テレビなどを経て監督になったのではなく、映画を映画として学んだ最初の世代のムービーメイカーで、幼いころからテレビや劇場で映画を見て、大学で映画技術を学んだところが前の世代との違いだという。スピルバーグはカリフォルニア州立大学で映画を学んでいたものの、ユニバーサルに出入りするようになって中退してしまったが、コッポラの母校UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)、ルーカスとミリアスの母校USC(南カリフォルニア大学)を中心に、コロンビア大からデ・パルマとシュレイダーが、ニューヨーク大からスコセッシがカリフォルニアにやってきて、次世代を担う映画作家たちのグループ交流が始まった。

お互いの撮影現場で助け合ったり、いたずらしたり?

画像: ルーカスの『THX-1138』ディレクターズカット版プレミアに集合した仲間たち(一番左はミロス・フォアマン監督でその隣から)、スコセッシ、デ・パルマ、ルーカス、コッポラ、シュレイダー Photo by Jim Spellman/WireImage

ルーカスの『THX-1138』ディレクターズカット版プレミアに集合した仲間たち(一番左はミロス・フォアマン監督でその隣から)、スコセッシ、デ・パルマ、ルーカス、コッポラ、シュレイダー
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彼らが互いの映画現場で交流を結んでいたエピソードは数知れないが、例えば『ジョーズ』で言えば、プリプロダクションの頃、スピルバーグはメカニックサメのブルースが置かれている工房に、スコセッシとルーカス、ミリアスを連れて行ったのだが、スピルバーグとミリアスがいたずらでルーカスの頭をブルースの口に挟んでしまい、大金のかかったブルースを故障させてしまったのだそう。こんな子供っぽい逸話も残っているが、有名なところで言えばルーカスが『スター・ウォーズ』のオーディションをデ・パルマの『キャリー』と同時開催したことがある。その「SW」の印象的なオープニング・タイトルクロールのやり直し編集をデ・パルマが手伝ったこともルーカス自身が証言している。さらに『キャリー』の撮影現場にはスピルバーグが度々やってきて、そこで最初の妻になるエイミー・アーヴィングと出会っている(口説いていた?)などなど、異色の逸話にも事欠かない。他にもルーカスがコッポラの『ゴッドファーザー』のセカンドユニットで撮影をしたり、スピルバーグがスコセッシの『タクシードライバー』の最終編集に提案を出したり、というちょっとした“お手伝い”や“意見交換”も頻繁にあったようだ。

またスコセッシに盟友となるロバート・デ・ニーロを紹介したのは、無名時代から彼を自身の初期作に使っていたデ・パルマだったし、スコセッシの『タクシードライバー』とデ・パルマの『愛のメモリー』は脚本のシュレイダーと、音楽のバーナード・ハーマン(ヒッチコック映画でおなじみの作曲家。この2作でオスカーに同時ノミネートされた)を共有し合っている。また『アメリカン・グラフィティ』で起用したリチャード・ドレイファスを『ジョーズ』のフーパー役を探すスピルバーグに紹介したのはルーカスだったことなど、自分の知っているキャストやスタッフをお互いに紹介し合うのも彼らのやり方だ。さらにルーカス製作&スピルバーグ監督の「インディ・ジョーンズ」シリーズを持ち出すまでもなく、コッポラがルーカスの『アメリカン・グラフィティ』を製作したり、スピルバーグの『1941』やシュレイダーの監督作『ハードコアの夜』の製作総指揮をミリアスが担当するなど、自らがプロデューサーとして仲間の監督作と共同作業することも。

画像: 今年4月に行われたAFI生涯功労賞授賞式でルーカスとスピルバーグの手から盾を授与されたコッポラ Photo by Alberto E. Rodriguez/Getty Images

今年4月に行われたAFI生涯功労賞授賞式でルーカスとスピルバーグの手から盾を授与されたコッポラ
Photo by Alberto E. Rodriguez/Getty Images

このようにして、スピルバーグはじめ同世代の仲間がそろって70年代に台頭し、彼らが以後のアメリカ映画界を牽引する地位を確立したことは映画ファンならご存じだろう。その偉業を祝うようなイベントが去る4月にLAで行われた。アメリカン・フィルム・インスティテュート(AFI)生涯功労賞の記念すべき第50回受賞者にコッポラが選ばれ、長年の友人スピルバーグとルーカスがプレゼンターを務めたのだ。スピルバーグは「コッポラは独立系アーティストを擁護する戦士であると同時に、新しいアイディアや意見に対し、心を開くことを恐れない人物です」と彼を紹介し、ルーカスは「僕が22歳のときに『崖から飛び降りることを恐れるな』と教えてくれた人です。それ以来その言葉を胸に僕は生きてきました」と2人だけの裏話を明かした。

彼らの友情が半世紀以上も続いていること自体が奇跡のようだが、『ジョーズ』『スター・ウォーズ』が映画史を塗り替えた頃、その裏でこんな偉大な映画人たちのグループが協力したり、切磋琢磨しながら傑作、名作を生み出していたと考えると、彼らの絆が他に類を見ない特別なもののように感じられてくるのだ。

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