映画史に残る人気女優のひとりとして、今も人々の記憶に留まり、新たなファンも生んでいる稀有なスター、マリリン・モンロー。そんな彼女の100回目の誕生日となる6月1日が間もなくやってきます。強烈なセックス・シンボルとして世の賛否両論を集め、36歳という若さで謎の死を遂げたことでも話題を呼び、セルフ・プロデュースの才能にも再び脚光が当たっている唯一無二の女性マリリンの生涯を振り返ってみましょう。(文・米崎明宏/デジタル編集・スクリーン編集部)
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不遇だった幼少期を経て
映画スターを夢見る少女に

1926年6月1日ロサンゼルスで誕生したノーマ・ジーン・モーテンセン、後のマリリン・モンローは、シングルマザーだった母グラディスの都合で里子に出されるが、祖母(孫が非摘出子であることを受け入れられなかった)の家の向かいに住むボレンダー家で幼少期を過ごす。

よく誤解されるのが、このボレンダー家で彼女が虐待されていたという説。しかし昨年日本公開されたドキュメンタリー映画『マリリン・モンロー 私の愛しかた』ではノーマ・ジーンはこの家で平穏に暮らしていたものの、引き取りに来た母のもとに間借り人として住んでいた英国俳優によって性的虐待を受けたことや、この俳優に襲い掛かった母が薬物依存で病院に送られたため、再びボレンダー家に戻ることになったことなどが明かされている。複雑な家庭環境にあったことは間違いないのだが。

そんなノーマ・ジーンは母の親友だった女性グレースの下で暮らすことになった時、彼女の影響で映画スターになる夢を持ったという。16歳で近所に住むジム・ドアティと結婚すると、ほどなくジムは第二次世界大戦の軍務で家を出てしまい、一人暮らしになった間に工場で働きながらモデルの仕事をすることに。だがジムはこの仕事に猛反対。夢を諦めきれないノーマ・ジーンは離婚を決意した。

当時有名だった大物ギャング、バグジー・シーゲルのコネで20世紀フォックスのスクリーンテストを受け、最初の契約にこぎつけた。この時、マリリン・モンローの芸名を名乗るように。ところが後ろ盾のバグジーが暗殺され、デビューするも端役ばかりが続いた。そんな時、有力エージェントと知り合い、『アスファルト・ジャングル』『イヴの総て』などの大作に脇役ながら出演。

52年頃から話題の新人となり、53年になると初主演作『ナイアガラ』が公開され、センセーションを呼ぶ。続いて『紳士は金髪がお好き』『百万長者と結婚する方法』で一気に大スターの仲間入り。当時のセックス・シンボルとして押しも押されぬ存在となって、翌年大リーガーのジョー・ディマジオと結婚し、日本に新婚旅行で来日した際は、熱狂的歓迎を受けた(SCREEN 54年4月号)。

センセーションを呼んだ初主演作『ナイアガラ』

『紳士は金髪がお好き』でジェーン・ラッセルと

同性からも「敵」呼ばわりされながら
着実に地位を上昇させる

しかし彼女への世間の反応は肯定的なものばかりではなかった。1950年代の本誌SCREENに掲載された記事によれば、「大女優ジョーン・クロフォードがある授賞式にやってきたマリリンの品性を疑う煽情的な行動に苦言を呈し、マリリンが『今後は保守的な女性になります』と宣言した」というレポート(53年7月号)や、日本での観客の反応に目を向け「お嬢様方はモンロウをきたないと仰り、お若い男性の間でも見るに堪えないと仰る方も多い」と断り、「マリリン・モンロウ是か非か」と題した特集(53年11月号)などの表現を見ると、突然現れた新星への拒絶反応も多かったようだ。

当時の女性スターに求められたのは、清純さであったり、大人の女性の秘かな魅力だったりが主流で、マリリンのような無邪気な性的アピールには免疫のない観客も少なくなかったためだろうか。「全女性の敵」などと蔑まれながらも、マリリンは『帰らざる河』『ショウほど素敵な商売はない』『七年目の浮気』といったヒット作を次々世に送り出し、大スターとしてゆるぎない地位を固めていた。

『七年目の浮気』の有名なスカートがめくれ上がるシーン

55年にはマリリン・モンロー・プロダクション(MMP)を設立。演技力を証明するために英国の実力俳優ローレンス・オリヴィエ共演の『王子と踊子』を製作したり、名門アクターズ・スタジオに通って演技レッスンを受けて主演した『バス停留所』で高評価を得たり、名匠ビリー・ワイルダーと組んだ傑作コメディ『お熱いのがお好き』でゴールデングローブ賞を受賞するなど、俳優としてのキャリアを高めていった。

『お熱いのがお好き』で共演のジャック・レモン、トニー・カーティスと

数多くのロマンス歴と
突然の死に残された謎

一方でロマンス多き女性であったことも事実だ。最初の夫、ジムと結ばれた時はまだ一般人に近い立場だったが、映画界とコネを作る時に出会った大物ギャングのバグジー・シーゲルや、いろいろな助言をくれた俳優トニー・カーティス(後に『お熱いのがお好き』で共演)らとの交際も知られている。売れっ子になる52年頃からジョー・ディマジオと恋愛関係になり、54年にゴールイン。しかしマリリンに従順な妻になってほしかった彼は、『七年目の浮気』などのセクシーな演出に激怒し、翌年には離婚してしまう。

56年には「セールスマンの死」などの作家アーサー・ミラーと3度目の結婚。「ハリウッドで一番不似合いな夫婦」などと揶揄されるが、ミラーはお互いの仕事には口を出さないという主義で、マリリンは俳優業を続け、順調に見えたものの、流産という悲劇が彼女を襲う。マリリンを支え続けたミラーだったが、『恋をしましょう』で共演した仏スター、イヴ・モンタンとマリリンの恋愛騒動が浮上。ついに61年に離婚が成立した。その後、あのジョン・F・ケネディ米大統領との密会なども噂されていたが、これはケネディの方から距離を置く形になった。

そして62年8月4日のマリリンの急死に際して、彼女の葬儀一切を手配したのは離婚後も秘かに彼女を愛し続けたジョー・ディマジオだったのは有名なエピソードだ。

この死は薬物の過剰摂取による自殺と報じられた(SCREEN 62年10月号)が、その後いくつもの反対論が持ち上がった。『マリリン・モンロー 私の愛しかた』ではマフィアによる暗殺と断じている。いずれにせよわずか36歳で亡くなった彼女は、今やハリウッドの伝説となった。

人気絶頂期にはアンチも大勢いたマリリンだが、彼女が男性社会のハリウッドでパワーを持つ女性の先駆者として貴重な存在だったことが死後になって評価されることになった。「女性の敵」という視点が180度変わるような事態をマリリン自身も想像していなかったかもしれない。そういう意味からも生誕100年を機にマリリンの果たした功績を再評価するべきだろう。

元夫ジョー・ディマジオが執り行ったマリリンの葬儀

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生誕100年を記念して「マリリン・モンロー復刻号」が発売中

マリリン・モンロー生誕100年を記念して「スクリーン復刻特別編集 マリリン・モンロー」(近代映画社・刊)がSCREEN STOREにて発売中。日本で彼女が未紹介だった時に掲載された初めての記事から、この記事内でも触れたSCREEN掲載の当時の読み物、出演作紹介ページ、ポートレートなどをずらりと再録している(全106ページ)。

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