オードリーの映画は観るたびに新鮮な感動を与えてくれる
繰り返し繰り返し観ても飽きない映画がある。歴史に残るマスターピース、マニアを魅了して止まないカルトムービー、魅力的なショットや台詞が存在する作品。そんな中でいつもワンパターンなのに観る度に新鮮な感動を味わえるのが「オードリー・ヘプバーン映画」だ。まるで、ジャンル映画のようではないか!? もしかしてこれは1つのジャンルかも知れない。
本日2019年1月20日は26回目の命日であることにくわえ、5月には生誕90周年のアニバーサリーイヤーを控える今、改めて、オードリーが、そしてオードリー映画がこれ程もファンの心を虜にする理由が、忘れがたい数々の名場面の中から垣間見えてくる。たとえば、こんな風に。
『ローマの休日』(1953)のラストシーン。丸1日姿を消した直後に設定された最初で最後の記者会見で、秘密の時間を共に過ごすうち恋に落ちた新聞記者、ジョー(グレゴリー・ペック)を見つめながら、「さようなら、ありがとう」と潤んだ瞳で叫び続けるアン王女。
『昼下りの情事』(1957)のクライマックス。すでに動き出した車上のフラナガン氏(ゲイリー・クーパー)を追いかけながら、ありったけの嘘をついてまだ自分を偽ろうとする愛おしいアリアンヌ。『ティファニーで朝食を』(1961)の土砂降りのマンハッタン。止まったままのイエローキャブ内で無謀な旅立ちを止めようとするポール(ジョージ・ペパード)から、「君は自由なようでいて、実はいつでも逃げ込める鳥籠を持ち歩いているだけだ」と指摘されて、思わず我に返るホリー。
それらはすべて、前以て訓練された演技力によって具現化されたものではない。永遠の愛と友情と感謝をもしも目でしか伝えられないとしたら?別れる寸前まで、嘘をつき続ける少女の愚かだが純粋な気持ちを表すとしたら?自分の弱さを初めて人から指摘され、真実に気づいたとしたら?等々、オードリーは役柄の感情に自分自身の感情を丹念に重ね合わせることで、巨匠たちを納得させた。それが正解だった。つまり、彼女の演技は正確には演技ではなく、本人の体験。または、オードリーそのもの。オードリーの純粋さそのもの。
かつてビリー・ワイルダーは「天使がほっぺにキスしてオードリーが生まれた」とファンタジーのようなコメントを残しているが、彼は正しかったのかも知れない。だから、人は次々と紡ぎ出される『麗しのサブリナ』(1954)を始め『パリの恋人』(1957)や『マイ・フェア・レディ』(1964)等のシンデレラ・ストーリーや、ロマンチック・サスペンス『シャレード』(1963)やロマンチック・コメディ『おしゃれ泥棒』(1966)等から、とてつもなく洗練されているけれど、同時に純粋で生々しく、それだけに力強い感情の発露を感じ取って、観る度に薄れかけていた感動を再生するのだと思う。
▶︎▶︎では、素顔のオードリーはどうだったのか?▶︎▶︎