素顔のオードリーはユーモアのセンスに満ちた映画のヒロインそのもの
では、素顔のオードリーはどうだったか?僕は幸運にも来日時の彼女と面会している。
一度目は1983年。旧友、ユベール・ド・ジバンシーのデザイナーデビュー30周年を祝い日本で開催されたイベントにゲストとして招かれた時、会見場に設定されたNHKホールの通路を歩くオードリーは、まるで、年上の親友、ジバンシーにぴったり寄り添う甘えん坊の妹のようだった。
こちらが用意した大きな花束を手渡すと、「まあ、こんなことするなんて、あなた、きっと映画スターになるわよ!」と悪戯っぽく笑って、ドアの向こうに消えて行った彼女。その少女っぽい仕草とユーモアのセンスは、映画で観たサブリナやホリーそのものだった。
二度目は1987年。ユニセフの親善大使に任命された直後、正式なインタビューが許された品川プリンスホテルの1階スイートで。時間より早く現れたオードリーは、こちらの拍手に合わせて自分も拍手しながら笑顔で入室、したかと思うと、窓の外の白い花を発見するや否や、背伸びして狭い天窓から顔を出し、「あれクチナシよね?そうじゃない?」と、噂通り花好きを強烈アピール。
その場に同席していた生涯最後の伴侶、ロバート・ウォルダース氏から「僕もここにいていいの?」と問われると、すかさず「勿論よ。むしろいて欲しいわ」と答える様子も、ラブロマンスのヒロインそのものだった。嘘ではない。本当に映画のイメージ通りだったし、スターにありがちな“意外な素顔”というのが見当たらなかった。
インタビュー中ずっと、ジバンシーの黒いアンサンブルスーツの裾から覗いていた長く、骨組みがしっかりした脚のフォルムと、ブルーがかった緑の瞳には痺れるような深みがあって、思わず質問を忘れてしまうほど危険だったけれど。そこには、スター・オードリーと人間・オードリーが見事に共存していたのだ。
女優として人間として自分自身に忠実に生きた63年間の生涯
晩年、ユニセフの親善大使としてエチオピアやバングラデシュ、ソマリアへと足を運び、飢えて痩せ細った子供たちをその手で抱き上げる様子を、メディアを介して世界に発信し続けたのも、スター・オードリーの知名度を使って人間・オードリーの切実な願いを伝えようとした結果。
その際、「初めて女優としての名声を利用したわ」とは、けだし名言。ユーモアのセンスは相変わらず抜群だったし、生来が子供好きで、自らも飢えて死にかけた第二次大戦下に垣間見たユニセフへの感謝と共感が動機の根底にあるそのボランティア精神には、一点の曇りもなかった。ただ気持ちのままに行動しただけなのだから。
女優としても、人間としても、自分自身に忠実に生きた63年の生涯は短かったけれど、白いキャンバスに絵の具で線を描くように、太く、真っ直ぐだった。そして、誰の目にも同じく、その姿は天使のように映り続ける。
先日、オードリーの次男、ルカ・ドッティ氏に面会する機会があった。その際、忘れられない言葉を頂いた。曰く、「皆さん、母としてのオードリーはどんなだったかとお聞きになります。でも、僕にとっての母は、日本のファンの皆さんが思う母と同じなんですよ」。実の息子の言葉だけに説得力がある。