スタンリー・キューブリックほど、作品が分析され、論争の的となり、次回作が期待され、私生活まで詮索された映画監督は他にはない。亡くなって20年たつ今日でも、「シャイニング」の4K修復版がリリース、専属運転手エミリオ・ダレッサンドロの自伝に基づく「キューブリックに愛された男」、俳優から助手に転じたレオン・ヴィタリを中心にした「キューブリックに魅せられた男」が公開され、彼への関心は衰えを見せない。
1950's〜1960's
初期は広報映画やドキュメンタリーを製作
スタンリー・キューブリックは1928年7月26日、ニューヨークのマンハッタンで生まれた。父から教わったチェスに夢中になり、賭けチェスで生活費を稼いだこともある。映画製作中はスタッフ、俳優とたたかい、めったに負けなかった。父からカメラをもらったことがきっかけで、写真にのめり込み、大判グラフ誌『ルック』に写真を売り、高校卒業後はカメラマン助手として4年余り勤務した。
1951年、貯金をはたいて短編映画「試合の日」を監督。試合当日のボクサーの様子をナレーションと映像を組み合わせて構成したオーソドックスなドキュメンタリーだった。ついで「フライング・パードレ」(1951)を監督。軽飛行機を自ら操縦して遠隔地の教区に飛ぶ神父を取り上げたもので、ドキュメンタリーというよりTVの再現ドラマに近い。
1953年には船員組合(SIU)が船員の権利と安全を守るために行っているさまざまな活動を紹介する広報映画「船員たち」を監督。同年、初めての劇映画「恐怖と欲望」を手がけた。敵地に不時着した米軍兵士4人が、川向うに敵がいるのを発見して急襲する。タフな軍曹、気弱な兵士という組み合わせはのちの「フルメタル・ジャケット」を連想させる。
翌1954年の「非情の罠」ではボクサーを諦めて帰郷しようとしていたデイヴィ青年が、ボスに拉致されたダンサーを救おうとする。マネキン工場での乱闘がクライマックスになっていた。デイヴィが都会から逃げ出すように、キューブリック作品の主人公は社会体制、組織の中で孤立し、去って行くことが多い。キューブリックは「それは偶然ではない」と述べ、さらに「ストーリーとは人生の何かについて表現するもの。ストーリーという形をとって人生をドラマ化することで、それ以外では学べないものを学ぶんだ」とも語っている。
雇われ監督の苦い経験が彼の進む道を決定づける
1956年、ライオネル・ホワイトの『逃走と死と』を映画化(映画の邦題は「現金に体を張れ」)。競馬場の売上金を強奪する犯人たちの行動をそれぞれの視点から描写する手法が新鮮だった。以後、原作をベースにストーリーを作り上げるやり方をとることになる。
ハンフリー・コッブの小説を基にした「突撃」を1958年に発表。第一次大戦中、フランス軍の兵卒が将軍の保身のために銃殺刑に処せられるという内容なので、配給元UAは難色を示した。カーク・ダグラスが乗り出したことで、製作が決定し、ダグラスが主役を演じた。
1959年1月、ダグラスは古代ローマの奴隷スパルタカスが帝国に反旗を翻して戦うというハワード・ファスト原作の「スパルタカス」で題名役を演じ、製作者もつとめた。アンソニー・マン監督の演出が気に入らず、二週間で首にし、キューブリックを招聘。キューブリックにとって初の大作で、完璧な調査をし、それを再現しようとしてダグラス、配給会社ともめ、すべてのコントロール権を握らなくてはだめだと思い知らされる。
1960年10月19日に封切られたが、それに先立つ同年1月に、キューブリックはウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』の権利を取得。中年の大学教授が十代の少女ロリータに惹かれて、破滅していくという当時としては大胆な内容ゆえ、検閲を通すため原作のエロティシズムは薄められた。「ロリータ」は1962年6月13日に公開され、以降、キューブリックはイギリスで仕事をすることになる。