映画に秘密を持たせ、答えのない問いを残したままにすべきです
講義と実習の両方を撮影し、研修を行う数人の生徒を追いかけ、その様子を記録に残すというアイデアは最初からありました。講義の時点では、まだ現実感がなく、論理的です。すべてが“フィクション”であり、患者はまだ紙の上だけしか存在していません。実習でも、人形や他の生徒、時には俳優も相手に練習をしますが、依然として距離があリます。研修が始まり、ようやく現実味を帯びてきます。
病気に苦しみ、死を迎える“本物の”患者と向き合うこと。それは多くの生徒にとってショッキングで、残酷な試練となります。それに加え、リアルな経営状況、少ない収入、人手不足、ストレス、増え続ける仕事といった重圧がのしかかる。効率を求められる状況を目の当たりにし、「患者の話を聞き、耳を傾ける」という学校で習った立派な“教え”は、すぐさまその真価が問われてしまう。それゆえ、この映画の3番目のパートでもある、“研修の感想”の聞き取りが重要なのです。
講師とのやりとりの中で、彼らは自らの志と目の当たりにした現実との相違に関して詳しく語り始めます。感情を露わにし、病気との向き合いかたや特定の患者との出会い、その病状、ケアの種類または技術的なふるまいを振り返ることができます。こういった時間は、近頃ではなお一層貴重なものになっています。医療の世界はますます経営や“効率”重視となり、もはや医療従事者の感情を大事にしていないように思えます。しかし、医療の質の大部分は、自らをいかに成長させられるか、言葉でどう表現するか、そして体験したことから感情をいかに切り離すかにかかっているのです。
Q:この映画は、看護の世界の経済的な側面を直接的には非難していません。病院職員の苦難や資金不足、老人ホームの縮小など壊滅的な状況もです。監督の意図を教えてください。
私の意図は、「敵とは意図されたものである」と言ったアンドレ・S・ラバルト監督の意見と完全に同じです。彼は、「演出とは、意図の形跡を消すのを可能にすることだ」とも付け加えています。さらに、映画は常に何か別の事柄を語っています。私たちが伝えたいこと、映画に伝えてほしいこと、もしくは映画が伝えたと我々が思っていたこととは違う「何か」です。映画に秘密を持たせ、答えのない問いを残したままにすべきです。
医療システムの問題や医療従事者へのプレッシャーを前面に押し出していないとはいえ、それらが映画の背景を形成しています。講師と生徒が何度もそれをほのめかしており、私には、政治的な側面という意味では劣らずにリアリティがあると思います。依然として暗がりの中にいる未来の医療従事者たちに発言の場を与え、彼らの決意や尊厳だけでなく、恐怖や疑念、もろさを伝えることは、それこそが政治的プロセスなのです。彼らの多くが働きながら勉強を続けるために努力し、犠牲を払っていることは、映画の中ではっきり見て取れます。加えて、指導官との面談は、私たちに医療従事者と患者との関係の本質を見せてくれました。両者は対等な関係ではないもののカメラに映った姿はリアリティがあり、多くのメッセージをはらんだシーンになっています。
Q:観客として、看護師の卵である生徒たちと一体感を抱き、時に患者に共感しますね。
その通りです。私たちは想像力を働かせ、両者を行ったり来たりします。「自分なら同じようにできるだろうか?」と自身に問いかけ、そして次の瞬間、「自分が病気になった場合は、腕に自信のあるベテランの看護師に診てもらいたい」と考える。病院での一部の映像は、自分自身や愛する人たちに関するこれまでのことを思い起こさせます。
私たちの周りには、療養中もしくは病気を抱えていた親戚や友人がいて、自分もいつか病気になるかもしれない。これこそが、この映画の伝えたいことが映画の主題を越えていく瞬間です。私の映画にはよくあることですが、主題によって全てが語られなくとも、その先へ行く入り口になります。この映画の場合は看護師の見習いの姿を越え、我々のもろさ、人間のもろさについて語っているのです。
Q:登場人物の数を減らし、3人か4人に焦点を当てた映画にしようと思いませんでしたか?
実習の多くがグループで行われる中、どの生徒にするかは選べず、それを逆手に取ってグループの利点を活かしたいと考えるようになりました。生徒たちが多くの社会的背景を持っていることは、この映画にとって重要な意味を持ちます。医療従事者の姿のみならず、現在のフランスそのものの姿を描くことができると考えました。
実際目を引く生徒は何人かおり、学校や研修、面談のシーンに登場しますが、意図したものではありません。最初の部分で登場するほとんどの生徒が1年生ですが、研修やインタビューで2年目や3年目の生徒たちも登場します。2~3年目の研修はどんどん技術的になり、より一層責任が求められます。この映画は、それぞれの生徒が人生という旅の途中にあるということをあえて言及してはいませんが、面談でのやり取りを見るとそれが感じられることもあります。
Q:監督は、映画を撮る際、自分でカメラを回し、編集も行っていますね。
自分で撮影を始めたのは25年前、『動物、動物たち』の撮影の時です。その後の『すべての些細な事柄』では、一から自分で撮影することに決めました。ラ・ボルドの精神科病院での撮影に不安を感じてましたが、カメラが私を守ってくれると同時に人との距離を近づけてくれることに気づきました。それ以降は自分で撮影を行っています。
初めてカメラを手にしたとき、私はプロのカメラマンよりも “綺麗”で素晴らしい映像を撮ろうと考えたのではなく、映す範囲(フレーミング)を制限しようと考えました。すべてを見せたいという誘惑に負けないためです。そこにあるものを撮り尽くすということは、緊張を強いるものであり、抵抗を感じました。
今日のデジタル時代においては、小型カメラも普及したことで我々は否応なく“全てが可視化されている”状況に放り込まれています。私的な領域がどんどんと侵食されている今、こうしたことは極めて重要に思えます。フレームやカメラの中に収めるもの/収めないものの境界線は美的な問題だけでなく、倫理的、政治的問題でもあるのです。編集においても、長いこと映像編集者にお願いしていたのですが、今は独りでしています。編集作業は非常に楽しいですし、私にはこの「一人旅」と自分自身に向き合う時間が必要なのです。
Q:本作を撮影したことで、気づいた学生たちを取り巻く環境に対して課題、問題点はありますか?希望に感じたことや驚くなどもあったのでしょうか?
最近の若者はどこか冷めているな、と感じています。政府のことは信頼しておらず、関わりたくもないと思っている。確かに前向きになれることもないし、地球の未来は明るくないのは認めざるを得ないですけどね! しかし一方でこの映画を製作する上で気づかされたのは“役に立つ存在になりたい”と望み、そのために人々にサービスを提供する術を身に付けようと考える若者が多いということです。この映画に登場する看護師の卵たちが、賃金は低く労働環境も悪いと知りながらも何故やる気を保ち続けられるのか。それは、彼らにとって重要なのは「自分たちの将来の仕事が、人々に役立つものかどうか」だからです。
Q:エンドクレジットを除き、劇中で音楽が使われていないのはなぜでしょうか?
加える必要がないと思ったからです。音楽は意図的に使用しませんでした。ほとんどは撮影時の音声で、あとは声のみ。効果音も加工音も全くありません。装飾なしの、とてもシンプルな映画です。出演者の語る言葉を、なるべくそのままの形で伝えたかったのです。そして、私はこの映画を明るい雰囲気で終わらせたいと考えていました。するとある朝、撮影に向かう途中にラジオをつけると偶然(ディランの歌をカバーした)あの曲が流れてきました。すぐに気に入り、エンドクレジットに使うことにしました。
Q:チャプター(各パート)の合間に、詩を用いたのはなぜですか?
ボブ・ディランの曲と同様、撮影中に偶然あの詩を知り、その内容がこの映画と強く共鳴するだけでなく、広義的な意味でドキュメンタリー映画にも通じるものがあると感じました。冒頭の節である“逃げるからこそ捕らえる”というのは、ドキュメンタリーもとい、消えゆく束の間の瞬間を捉える芸術そのもののように思います。
【ニコラ・フィリベール監督プロフィール】
1951年ナンシー生まれ。1978年「指導者の声」でデビュー。その後、自然や人物を題材にした作品を次々に発表。1990年『パリ・ルーヴル美術館の秘密』、1992年『音のない世界で』国際的な名声を獲得。2002年『ぼくの好きな先生』はフランス国内で異例の200万人動員の大ヒットを記録し世界的な地位を確立する。2008年には日本でも大々的にレトロスペクティヴが開催された。本作は2007年『かつて、ノルマンディーで』以来11年ぶりの日本公開作となる。現在68歳。
作品情報はこちらでチェック!
人生、ただいま修行中
2019年11月1日(金) 新宿武蔵野館 他全国順次公開
配給:ロングライド
©️Archipel 35, France 3 Cinéma, Longride -2018