〜アクションヒーローの代名詞 男ランボー〜
一作目の『ランボー』が公開されて以来、早いもので40年弱が経過した。不死身のベトナム帰還兵ジョン・ランボーは、今やアクションヒーローの代名詞。パロディにされたり、オマージュを捧げられたり。
シリーズを一本も見たことがない人でもランボーというと、銃や弓を構え、タンクトップ姿で肉体美を誇示するシルヴェスター・スタローンの姿が思い浮かぶほどだから、その影響力は計り知れない。超人的な体力とタフネスを武器にして敵を次々と始末していく劇画チックな無敵の殺人マシン……一般的には、そんなイメージだろうか。
しかし、シリーズをしっかり追っていくと、ランボーのキャラクターの魅力も見えてくる。すなわち、寡黙なアウトロー。これはスタローンのもうひとつの代表作『ロッキー』シリーズの主人公ロッキー・バルボアとは対照的だ。
ロッキーは口下手ではあったが、ジョークのセンスを持っていたし、人生訓ともとれる名セリフを何度となく発してきた。愛する者と結ばれ、家庭を築いた。対して、ランボーは冗舌になる場面は怒ったときくらいで、セリフは少ない。
愛する者と結ばれることもなく、ベトナムで負った心の傷を癒せず、つねに孤独だ。俺たちのヒーロー、ランボーの本質は、そんな痛みと哀愁にある!そう言い切って、ランボーの歴史を振り返ってみよう。
「タクシー・ドライバー」「ディア・ハンター」的な社会派作品のテーストがあった1作目
1982年の1作目『ランボー』は、アクション映画に分類されるものの、つくりは硬派だった。アメリカの田舎町に流れ着いた帰還兵ランボーは保安官の嫌がらせに対して、文句を発することなくひたすら耐える。
耐えて、耐えて、耐え抜き、留置所で拷問のような扱いをされたとき、ベトナムで受けた悪夢が甦り、反射的に防衛本能が働き、反撃に転じることになる。我慢を重ねた主人公が、そのあげく戦闘能力を全開にするという展開は、高倉健の『昭和残侠伝』シリーズに代表される任侠映画の王道パターンにも似ている。
面白いのは、愛用のサバイバルナイフを持ってはいるものの、健さんのように斬って斬って斬りまくる…わけではない点。今でこそ殺人マシンの印象が強いランボーだが、本作では敵である保安官や州兵たちを、誰ひとり故意に殺してはいないのだ。これは原作小説と異なる点であると同時に、映画におけるランボーの人間性を際立たせることになった。
ラストでは国のために戦ったにも関わらず、帰国したら危険人物として扱われる帰還兵のいらだちが、寡黙なランボーの口から怒りとともに語られる。その強いメッセージ性を踏まえると、本作はアクションヒーロー映画というより、『タクシー・ドライバー』『帰郷』『ディア・ハンター』などの帰還兵の狂気や苦悩を描いた社会派ドラマに近い。
国に見捨てられた米兵の救出に向かうことでヒーローの道を歩み始める第2作
ランボーが本格的にアクションヒーローの道を歩むのは、1985年の2作目『ランボー/怒りの脱出』からだ。ベトナムで捕虜になったまま国に見捨てられた米兵の存在という社会派の要素こそあるが、その救出に向かったランボーもまた国に見捨てられるという逆境設定は、グリーンベレー最強の戦士という彼の凄みを見せつけるために機能する。
敵に捕らえられ、拷問されても口を開かない。泥にまみれ、ヒルに吸い付かれても弱音を吐かず、森の中でゲリラ戦を繰り広げ、正確に敵を倒していく。まさに不言実行。
一方で本作では、現地案内人の女性バオとの間に芽生えた、シリーズ唯一のロマンスの逸話が描かれる。しかし、彼女が敵に殺されたことにより、その怒りを戦闘のエネルギーに変換。誰かと幸せになれないランボーは、やはりアウトローだった。
ちなみに、ここでランボーはバオに〝俺は「使い捨て」(=エクスペンダブル)だ〞と語るが、このワードが21世紀のスタローンの代表作『エクスペンダブルズ』とリンクしているのは注目しておきたい。
第3作ではアフガニスタンの砂漠で体制崩壊期のソ連軍と戦う姿に〝タカ派〞との揶揄も
続く3作目1988年の『ランボー/怒りのアフガン』では、よりヒロイックな活躍が強調される。舞台はベトナムではなく、タイトルどおりアフガニスタンで、ランボーにとっては他人の戦争に首をつっこんだかたちだが、目的が恩人のトラウトマン大佐の救出なのだから、戦う動機に筋は通っている。
前2作が山岳地帯の森林がバトルフィールドになっていたのに対して、ここでは砂漠。陽光の下での戦いが多いせいもあるが、得意の弓矢や射撃などのアクションがビシッと決まった。
対ソ連という冷戦に目配せした作風ゆえタカ派と揶揄されたり、アフガンから撤退したソ連の社会主義体制崩壊期の公開だったためのピントのズレが批判されたりしたが、娯楽アクションと割り切れば申し分なく面白い。
弾圧を受ける少数民族のために20年ぶりにランボーを復活させた第4作
この3部作で、『ランボー』は終了するはずだった。しかし、2008年、前作から20年を経て、62歳のスタローンは第4作『ランボー/最後の戦場』を送り出す。スタローンが長いブランクを経て本作を撮ろうとしたのは、ひとえにミャンマーで起きていた少数民族への非人道的な弾圧を告発するという確固たる意志があったから。
そういう意味では、一作目の社会的目線が先に立った、ともいえる。ランボーのジャングルでの鮮やかな戦いぶりはそのままに、全3作では見られなかったハードコアな殺戮シーンのオンパレード。人間の命が驚くほど軽い国が、この地上にはある……そう伝えているかのようなバイオレンス。
一方、ランボーのキャラクターを注視すると、全3作の逆三角形の均整のとれた肉体が変化し、やや寸胴気味に見えるのは年齢的に仕方がない。しかし、ランボーは歳をとってもランボーであり、口数の少ない世捨て人的な性格は変わらない。しかし、本作には大きな変化がある。それはPTSDに苛まれたあげく、戦い続けなければならない運命を受け入れること。
もう祖国アメリカのためには戦わない。〝自分のために(敵を)殺す〞という独白のとおり、自身の大義で戦うのが21世紀のランボーであり、前3作とはガラッと異なる点だ。
すでに70歳を越えたランボーは幸福な生活を掴んでいたのだが……
注目の最新作『ランボーラスト・ブラッド』でも、その流儀は貫かれている。題材はメキシコで行なわれている人身売買。本作のランボーは故郷アリゾナで、旧知の女性やその孫娘と家族のような関係を育んでおり、もはやアウトローではない。絆がある以上、そこに会話があるのは当たり前で、前4作に比べるとセリフは多めだ。
しかし、幸福そうに見えるのは最初だけ。後半に進むほど怒りとともに、ランボーの戦士の血がたぎりだし、殺気は前作以上に高まる。〝俺は復讐したい〞という驚くべき発言も、前作で戦士としての宿命を受け入れたことを踏まえれば納得がいく。
ランボーはすでに70歳を過ぎている設定だが、歳をとって丸くなるどころか、どんどん孤高の道を突き進んでいる。老兵は消え去るのみなのか、それともこの先があるのか?美しく老いることを拒絶し、アウトサイダーとして生きる男の今後が気になるところだ。
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