アラン・ドロン、007、アメリカン・ニューシネマ、
カンフー&オカルト・ブーム、スター・ウォーズが時代を作る
60年代に入るとスターの人気地図も様変わりするようになった。まず1960年に登場したのが「太陽がいっぱい」のアラン・ドロン。翌1961年暮れには「ウエスト・サイド物語」が公開されて歴史的ロングランを記録、主演のジョージ・チャキリスも大人気となった。1963年には「007」シリーズの第一作「007は殺しの番号」(後に「ドクター・ノオ」に改題)が公開されショーン・コネリーも人気者の仲間入りをした。女優もヨーロッパからブリジット・バルドー、ジャクリーヌ・ササール、ミレーヌ・ドモンジョといった新しいタイプが登場し人気となった。俳優ばかりでなく、「道」「抵抗」「居酒屋」などのヨーロッパ映画がロードショー館でヒットした。
60年代中期から後半にかけて、スクリーンはいまに至るスタイルを確立していく。創刊20周年の1967年2月号からはA4判に大型化、すでにTVページは十数ページにも及ぶようになっていた。モノクログラビアではスターのお宅拝見や撮影ロケ現場訪問のようなオフショットが目立っている。またピンナップでは水着写真も見られるようになった。
六年連続読者の人気投票一位だったオードリー・ヘプバーンを抑え、ジュリー・アンドリュースが「サウンド・オブ・ミュージック」の大ヒットで一位になったのもこの時期。また「007は二度死ぬ」の日本ロケも行なわれている。イタリア製西部劇〝マカロニ・ウェスタン〞も熱狂的なブームになった。
60年代末から70年代にかけては「俺たちに明日はない」「イージー・ライダー」などアメリカン・ニューシネマも話題になり、フェイ・ダナウェイ、キャサリン・ロスら新世代女優が表紙を飾るようになっていく。また「ある愛の詩」「小さな恋のメロディ」のような純愛映画もヒット、さらには「ゴッドファーザー」の大ヒットでフランシス・フォード・コッポラも大監督の仲間入りをした。
そして1973年、ブルース・リーの「燃えよドラゴン」が大ヒット、ブルース・リーはその時すでに亡くなっていたが「ドラゴン危機一発」などの彼の旧作も公開され、カンフー映画ブームが巻き起こり、未知の世界だった香港スターにも注目が集まるようになった。
「燃えよドラゴン」のブルース・リーがカラーグラビアを飾った
パニック映画ブームを呼んだ「タワーリング・インフェルノ」の記事
「スター・ウォーズ」でハリソン・フォードとキャリー・フィッシャーが来日
また「エクソシスト」がオカルト・ブームの引き金となり、「タワーリング・インフェルノ」などのパニック大作ブームも同時期に起こるなど、一本の大ヒット作とそれに追随する作品による一過性のブームが多くなったのもこの時期の特徴と言えるだろう。
1978年には映画史を変えたと言っても過言ではない作品が登場した。ジョージ・ルーカス監督の「スター・ウォーズ」だ。スピルバーグの「未知との遭遇」も同じ年に公開されており、お正月や夏休みといった書き入れ時にはSF作品が公開されるようになっていく。なお、1968年の第29回ベネチア映画祭で催された国際図書展で、スクリーンは最高賞のサンマルコ獅子賞に輝いている。
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