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リバイバル『ローマの休日』のジョー役で再注目されるアメリカの良心
製作70周年でリバイバル公開される『ローマの休日』(1953)。
常にこの名作で一番の注目を浴びるのはアン王女を演じたオードリー・ヘプバーンだが、ここで相手役ジョーを演じたグレゴリー・ペックは、この映画が公開されればそうなるだろうことを撮影中からわかっていた。
彼はこの作品でオードリーがアカデミー賞を受賞すると確信したため、ほぼ無名の新人オードリーを当時大スターだった自分と同等のクレジット待遇にするようプロデューサーたちに要請したのだから。
そして彼の演じたジョーという男性も、今見返してみると古き良き日のアメリカ紳士の良心的な象徴として見直されるべき存在かもしれない。
今年で没後20年を迎えるグレゴリー・ペックは良心的という言葉が似合う俳優だった。ジョーだけでなく、彼の代表作に挙げられる『アラバマ物語』(1962)のアティカス・フィンチ役を演じたことが、そのイメージを強固なものにしている。
彼がアカデミー賞主演男優賞を受賞したこの役は、1930年代のアメリカ南部の街で白人女性の暴行殺人容疑で逮捕された黒人青年の容疑者を助けるという人権派弁護士で、AFIが選んだ「アメリカ映画100年のベストヒーロー100」でベストワン・キャラクターに選ばれているのは有名な話だ。
さらにハンサムで長身、人格者でリベラルな人物だった彼は多くの俳優仲間たちからも愛され、映画芸術科学アカデミー協会の会長などを務めたり、公民権運動や反戦抗議活動などにも参加し、アメリカ大統領自由勲章も受勲といった顔も持つ“誰からも信頼される男”だった。
ペックは1940年代から舞台・映画で活躍するようになり、『白い恐怖』(1945)『子鹿物語』(1946)『白昼の決闘』(1946)『紳士協定』(1947)『頭上の敵機』(1949)など主演作が次々作られる。
1950年代も『ローマの休日』はじめ、『白鯨』(1956)『大いなる西部』(1958)などのヒット作を連打。その後も『ナバロンの要塞』(1961)『恐怖の岬』(1962)『アラベスク』(1966)『マッケンナの黄金』(1969)などアクションやサスペンス、ドラマまでハリウッドを代表する売れっ子スターとして活躍した。
1970年代になると役柄の幅を広げ、オカルト映画『オーメン』(1976)を大ヒットに導くと、『マッカーサー』(1977)では連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサーを演じ、『ブラジルから来た少年』(1978・日本未公開)では狂気の科学者を演じるなど演技派ぶりを発揮した。
『ローマの休日』公開後も続いていたオードリーとの交流
1987年秋には第2回東京国際映画祭の審査員長として来日したこともあり、同年末にオードリーが2度目の来日をしているが、東京ではすれ違いとなったものの、翌1988年のアカデミー賞授賞式では2人そろって脚本賞のプレゼンターを務め、その数か月後、ニューヨークのイベントでも2ショットを見せてくれた。
このようにオードリーとの交遊は『ローマの休日』の後もずっと続いていた。オードリーの最初の夫となった俳優メル・ファーラーを彼女に紹介したのもペックだったという。ペックとファーラーは以前共同で舞台劇場を設立したこともある仲だった。
またオードリーは後年、『ローマの休日』で得た最大の宝物はペックとウィリアム・ワイラー監督と芽生えた終生の友情だったとも語っていて、生涯その関係を大切にしていたことは有名。
先立ったオードリーの生前には何度もペックがお見舞いに訪れ、葬儀には心を込めた献花が届けられた。
ペック自身は2003年6月12日に87歳で死去。同16日にロサンゼルスのカトリック教会“天使のマリア大聖堂”で葬儀が執り行われた。
そこにはハリソン・フォードら映画関係者やファンなど3000人が参列したといわれる。『アラバマ物語』で共演した黒人俳優ブロック・ピーターズが弔辞を述べたことも話題となった。
『ローマの休日』(1953)製作70周年でリバイバル公開
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