カバー画像:Photo by Getty Images
イギリス人だけれどフランス女優・歌手・ファッションアイコン・社会運動家として長年活躍してきたジェーン・バーキンが7月16日、パリで亡くなった。76歳だった。長い闘病後、24時間の見守りを卒業し一人で自宅に戻ったその晩のことだという。
日本では8月4日から娘のシャルロット・ゲンズブールが監督したドキュメンタリー『ジェーンとシャルロット』(2021年)が公開されるというタイミング。6月にはプロモーションも兼ねた来日が予定されていたのだが、ジェーンの体調がすぐれないということで中止になっていた。
このドキュメンタリー、2021年7月(この数カ月後、ジェーンは脳梗塞で倒れる)のカンヌ国際映画祭(この年はコロナ禍で二カ月延期)でお披露目され、筆者はそこで元気なジェーンとシャルロット親子を見ていた。
ドキュメンタリーの冒頭は2017年に東京で行われた、ジェーンのライブである。撮影の中断もあったそうだが、シャルロットがジェーンとの関係を見直したいと企画したという。
二人の間にあった気持ちのすれ違い、父親の違う三姉妹の長女ケイト・バリーの自死で母ジェーンが受けた衝撃などを語り合い、理解し合い、ほほえみ合う母娘の姿が映画に映しとられている。
カンヌの上映会場の人たちは本当に温かく喜びをもって二人の登壇を祝福し、それを受けて二人とも満面の笑みを見せていたのを思い出す。
マニッシュな黒のパンツスーツで合わせた母子は、姉妹のようにみえた。タキシードのようなスーツをざっくりと着崩したジェーンに筆者はさすが生バーキンだぁ、カッコイイ~と感動したものだ。
7月17日、フランス・イギリスの雑誌はジェーンの追悼記事を一斉に載せた。マクロン大統領もSNSに「彼女はフランスの象徴だった」と投稿。日本でもファッション系を中心にびっくりするほど多数の追悼記事が出た。
東日本大震災の時はすぐに来日してチャリティー活動を
ジェーンは1946年、ロンドン生まれ。母は女優で父は軍人だが貴族の称号もあり、裕福な名家の出と言っていいだろう。
母に憧れ17歳で舞台デビュー、18歳でリチャード・レスター監督『ナック』(1965年)に出演、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『欲望』(1966年)でもちょい役ながらヌードシーンもこなし、話題になる。
1969年フランスに渡り歌手セルジュ・ゲンズブール主演の『スローガン』に出演し、その後はフランス映画で主に活躍。
娯楽映画のフレンチ・ロリータ小悪魔娘役から、1976年の『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』(セルジュ自身が監督した映画化)で少年のようなベリーショートにタンクトップの両性具有的なヒロインに変身、ゲイの青年に恋する娘を演じ世間に衝撃を与える。
ジャック・ドワイヨン監督と暮らし始めた1980年代後半からは、リヴェット、ヴァルダなどヌーベルバーグ派の作家監督に愛される名女優になっていく。
一方、歌手としてのデビューは1969年の「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」。セックス中の恋人たちのささやきとあえぎ声で出来たセルジュとのデュエット曲は世界的大ヒットに。
以降、セルジュとは音楽のパートナーとして1991年の彼の死去まで互いに欠かせない協力関係を続け、何枚もCDをリリース、ヒットさせている。
プライベートでは、“恋多き女”とも言われるジェーンだが、恋人は4人だけ。18歳で結婚した作曲家ジョン・バリー、22歳で出会ったセルジュ、34歳の時のジャック・ドワイヨン監督。48歳最後の恋人と言われる作家オリヴィエ・ロラン。バリーとセルジュは10歳以上年上で、ジェーンは影響を受けるだけ受ける立場だった。
そして一人の男に一人の娘をもうけ、3人娘の母となる。ジェーンにとっては母であることが一番大きなことであり、三人を等しく愛そうとすることは喜びだったとドキュメンタリーでも語っている。
しかしもう一つ、ジェーンには忘れてはならない顔がある。社会運動家の顔だ。人道支援のために戦火のサラエボへ向かい、アウン・サン・スー・チー女史を支援していた時はエルメスのバーキン・バッグにスー・チー女史のステッカーを貼っていた。
2011年4月東日本大震災の被災地支援のため、在日外国人が日本を逃げ出す中で来日、震災支援のためバーキン・バッグをオークションで売り、チャリティライブを行い、3年かけて各地を回り交流を続けたこともある。
ここで筆者は考えた。映画・音楽・恋・ファッション・母・社会運動。これらの活動を一言でまとめるとしたらなんだろう。……それは「愛」という言葉ではないか。そうか、ジェーン・バーキンは大きな「愛」の人だったのだ。
求める愛から与える愛、包み込む愛、そこにあるがままの、愛。くしゃくしゃの笑顔と共に忘れ得ないジェーンの愛に、ありがとうそして安らかに、と言いたい。