エクソシストとは悪魔祓いの祈祷師のことで、作家ウィリアム・ピーター・プラッティが1949年に実際に起こった「メリーランド事件」を元に書き上げた原作をウィリアム・フリードキン監督が映像化してオカルトブームを起こした。
映画のヒットを受け近代映画社ではスクリーン臨時増刊「恐怖!オカルト映画のすべて」を発売。その中では荒俣 宏 氏が特別読物「悪魔はキミを狙っている やさしい悪魔学」を執筆している。モデルとなった事件とは? 悪魔とは? 悪魔祓いとは? 当時の記事を一部抜粋にて掲載する。
(文・荒俣 宏)
悪魔祓いの方法とは?
悪霊パズズを追いはらうために生命を投げうったメリン神父とカラス神父。あの二人が映画のなかで身をもって示したように、悪魔を人間の体や心から追い出すことが、「悪魔ばらい」だ。
普通、悪魔や悪霊が宙にさまよっている状態では、人間に危険はない。それはちょうど、大気中にただよっている病原菌が、そのままでは人間に病気を起こさせないのとよく似ている。病源菌が人間の体に侵入しなければ、病気は発生しないからだ。そこで、病気になった人間に医師が必要なように、悪魔にとり憑かれた人間にはエクソシストが必要になってくるわけだが、それではどうやったら悪魔を追いだせるだろうか?
悪魔ばらいの大道具・小道具
もともと悪魔ばらいは異端者をキリスト教に改宗させるための儀式だった。その伝統を受けて、悪魔ばらいの方法は「浄めの儀式」と「拷問による悪魔追い出し」のニつに分かれる。
浄めの方向では、第一に「聖水」というものが使われる。聖水、とりわけ奇跡の泉ルルドから汲んだ聖水は、地方によって塩やブドウ酒ともなり、これを悪魔にふりかけると、善の力によって、近寄る悪魔の体を焼きこがすことができる。
時によるとロウソクが悪魔ばらいに使われるのも、目的はおなじだ。また「死体の周辺から悪魔を追いはらう」ことも、聖水の大事な役目だ。
つぎに、教会の鐘は、その澄んだ音色のおかげで、大気のなかに浸みこんで嵐を起こしたり、悪魔の群れを追いはらう力があると信じられてきた。洗礼や祝福の儀式にかならず鐘が鳴らされるのは、悪魔に魂を奪われないためだ。たとえば結婚式にウェディング・ベルが鳴らされるのも、実は悪魔ばらいのひとつだったと考えてもいいだろう。鐘による悪魔ばらいは、とくにイギリスで古くからおこなわれている。また、ウォール・チャールズの「悪魔学入門」には、アラビアのマホメット教徒が悪魔を追いはらうために石を投げつける話が書いてある。
そのほか、アイルランドでは賛美歌が工クソシズムに用いられたり、福音書の朗読が採用されたりしているが、いずれにせよ、これら悪魔ばらいの大道具、小道具は、悪魔に対する武器になるよりもむしろ、人間の信仰心を高め悪魔に打ちかつ自信を深めさせる目的で人間に向けて差しのべられた心の支えだと理解すべきだろう。そうでないと、キリスト教徒でも何でもない世思のデーモンに悪魔ばらいが効くこと自体ナンセンスになる。悪魔と闘うのは、結局ぼくたちの心なのだ。そしてその心が悪魔に占領されてしまったとき、ぼくたちはぼくたちでなくなる。だからこそ、悪魔ばらいの手段がすべて失敗したとき、ぼくたちに残さに残されるただ一つの方法は、自分で自分の心を閉ざすこと――自殺することなのだ。あのカラス神父がそうしたように――。
文/荒俣 宏
(1971年10月発行 スクリーン臨時増刊「恐怖!オカルト映画のすべて」より)