Photo by Michael Tighe/Donaldson Collection/Getty Images
最新インタビューを通して編集部が特に注目するキーパーソンに光をあてる“今月の顔”。今回はその特別編として、10月31日に30回目の命日を迎えるリヴァー・フェニックスをクローズアップ。最新インタビューはないのですが、生前リヴァーに何度も会ってインタビューした筆者の思い出とともに、23歳の若さで早逝したリヴァーの発した言葉を振り返ってもらいました。(文・金子裕子/デジタル編集・スクリーン編集部)
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プロフィール

1970年8月23日米オレゴン州生まれ。5人兄弟の長男として、両親が宗教団体の宣教師だったため幼少期から南米各地を旅して育つ。1977年にアメリカに戻り、10歳の時ショウビズ界入り。

『エクスプロラーズ』(1985)で映画初出演。『スタンド・バイ・ミー』(1986)で世界的に人気ブレイク。『旅立ちの時』(1988)でアカデミー賞助演男優賞候補に。『マイ・プライベート・アイダホ』(1991)でベネチア国際映画祭男優賞受賞と人気実力ともに上昇中だったが、1993年10月31日に薬物の過剰摂取で急死。

『ジョーカー』のホアキン・フェニックスは実の弟で、兄の死の現場に立ち会った彼は長く沈黙を保っていたが、オスカー受賞時のスピーチでリヴァーに感謝の言葉を述べた。

「僕自身はスターになることより本物のアクターになりたいと思います」
と語っていた早逝の逸材

リヴァー・フェニックスが“急性多重薬物中毒”により、1993年10月31日にこの世を去ってから30年。23年間のあまりに短い人生だった。

しかし『スタンド・バイ・ミー』をはじめ、14本の映画作品を遺して人生を駆け抜けたリヴァーは永遠。スクリーンの中の“輝き”はファンの心に深く刻まれ、いまなお生前の彼を知らない世代のファンも増え続けている。

映画デビューはSFファンタジー『エクスプロラーズ』(1985年)。ここでは丸ぽちゃの子供っぽい顔に眼鏡をかけた科学オタクだったが、翌年公開の『スタンド・バイ・ミー』(1986年)では顎のラインもシャープな美少年に変貌。心の傷を抱えながらも友を思いやる優しい少年を演じ、繊細な感受性とピュアな魂、脆さと痛みをみずみずしい演技で体現。大ブレイクした。

その熱狂ぶりは、1987年4月、『スタンド・バイ・ミー』を携えた初来日でもよくわかる。記者会見には多くのメディアが殺到し、まるで大スターを迎えるような盛況ぶり。16歳のリヴァーはちょっと恥ずかしそうだったが、数々の質問にしっかり答えていく。

なかでも「僕自身は“スター”になりたいとは思っていません。“本物のアクター”になりたいと思っています」という真摯なコメントに拍手が湧いた。

翌日の個別インタビューは、写真スタジオで。リヴァーのかたわらには両親と4人の弟妹がズラリ揃って、正直ちょっと引いた。

しかしスタジオの隅のテーブルを囲んだ家族は物静かで、撮影の合間にはリヴァーも弟リーフ(現・ホアキン名義)のそばに行って仲良くおやつを食べながら子犬のようにじゃれ合って。とにかく可愛かった。

このおやつが手作りのドライフルーツやナッツなのは当然で、一家は徹底したヴィーガン。リヴァー自身も「強い者が弱者の命を奪って食べるなんて残酷すぎる。絶対に、やめるべきだよ!」と力説。

ヨレヨレのTシャツ&ジーンズ姿に焦った映画会社スタッフが用意した衣装も皮製品はNGで、ベルトも靴も布かビニール。蕎麦屋で口にしたそばが魚の出汁と知って泣きそうになったことも話題になった。

また、来日前に日本公開された『モスキート・コースト』(1986年)は、ハリソン・フォードが演じる自給自足の理想郷を建設しようとする父が、家族を引き連れてジャングルに移住する物語。

ピーター・ウィアー監督が、リヴァーの“映画そっくりな生い立ち”を知って、急遽、長男役に起用したのも有名なエピソード。リヴァー自身も「南米で暮らした昔のことを思い出して懐かしかったけど、なんだか胸が痛くなった」と。

ちなみに、初恋の人マーサ・プリンプトンとの仲はこの映画の共演中から始まった。

メジャー路線で成功していたが本人の意向でインディペンデント映画に主演

帰国後の活躍は目を見張る。『ジミー さよならのキスもしてくれない』(1987年)で映画初主演。

『リトル・ニキータ』(1988年)は、空軍士官学校への入学を夢見る“オール・アメリカン・ボーイ”的な前半と両親の秘密を知って苦悩する後半。ルックス的にもパーソナリティ的にもリヴァーの魅力をフルに活かし、ファンは大満足。

『旅立ちの時』(1988年)では、FBIに指名手配されている両親からの“旅立ち“を決意する息子を好演。本作で、初のアカデミー賞助演男優賞候補に。

次いで、大ヒットシリーズ『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(1989年)で、ハリソン・フォード演じるインディの若き日をアクティブに……。

当時はこのままメジャー路線を突っ走る!と大きな期待を寄せられていたが、「スターよりアクター」になりたいリヴァーの胸中は複雑だったようだ。

というのも、次に選んだのが脇役出演で稀に見るプッツン演技を披露した『殺したいほどアイ・ラブ・ユー』(1990年)。

共演したキアヌ・リーヴスとは友情を育み、青春ラブストーリー『恋のドッグファイト』(1991年)を経て、インディペンデント映画の俊英ガス・ヴァン・サント監督の『マイ・プライベート・アイダホ』(1991年)でキアヌと再共演。

この作品でベネチア国際映画祭最優秀男優賞を受賞した21歳のリヴァーは、“脱ハリウッドメジャー”と“インディペンデント指向”を打ち出した。

1991年6月23日7月2日。受賞作を携えてガス・ヴァン・サント監督と再来日。この時、妹レインも参加するバンド〈アレカズ・アティック〉のメンバーと、6歳年上の恋人スーを同伴。

彼女が『愛と呼ばれるもの』(1993年)の共演で恋に落ちて別れたばかりのサマンサ・マシスにそっくりなのに驚いた。余談だが。

「役柄をゲイにして欲しいと監督に提案した。キアヌと深夜のストリートを観察に行ったりもして、刺激し合って。とにかく、これまで以上にものすごくのめり込んで。これからもこういう仕事をしていきたい」。

画像: 妹レインらと“アレカズ・アティック”というバンドを組んでいたリヴァー Photo by Steve Eichner/Getty Images

妹レインらと“アレカズ・アティック”というバンドを組んでいたリヴァー

Photo by Steve Eichner/Getty Images

純粋でひたむきな青年だったのになぜ“自己崩壊”の道をたどってしまったのか

しかし、この“のめり込み演技”というのがくせ者で、演じる側のメンタルにかなりのダメージを及ぼすこともある。ましてやリヴァーのように生真面目で繊細ならばなおさらかもしれない。

朝10時からの個別インタビューだったが、すでにリヴァーの手にはブラッディメアリーのグラス。「朝からお酒?」と眉をひそめる私に「トマトジュースとセロリでウオッカは少しだから、大丈夫」と2杯目をおかわりし、「マリワナも植物だから、いいんだよ」とつぶやいていた。

最後に会ったリヴァーは、相変わらず純粋でひたむきな若者ではあったけれど、どこかバランスが崩れているような違和感があった。

後に、インディーズ指向のリヴァーがロバート・レッドフォード主演のメジャー大作『スニーカーズ』(1992年)に出演したのも、バンドのメンバーや恩人や各種活動の関係者が起居する合宿所〈キャンプ・フェニックス〉を維持するため。

100万ドルのギャラが目当てだったと知ると、それも納得。当時のリヴァーは周囲のイメージと自分の内面とのギャップが埋められず、しかもその肩には多くの人々への“責任”がのしかかり、“自己崩壊”の道を辿ったのだ、と思ってしまう。

幻の遺作と称され死後に公開された2作品。『アメリカンレガシー』(1993年・日本はビデオ発売後2014年に劇場公開)も『ダーク・ブラッド』(ジョルジュ・シュルイツァー監督が2012年に完成させた)も、妻を亡くした悲しみと孤独に苛まれ精神を崩壊させていく若者を痛いほどのリアリティで熱演。

その“正気と狂気”の境界線上でもがき苦しむ主人公の魂の叫びがリヴァー自身と重なるようで……涙。

天性の才能を与えられながらも、それを極めることができなかった早世のスター、リヴァー・フェニックス。が、その才能と演技への高い志は、可愛がっていた4歳年下の弟ホアキン・フェニックスが受け継いでいる。

今年12月には、いまやオスカー俳優となったホアキンが巨匠リドリー・スコット監督とタッグを組んだ『ナポレオン』(2023年)も公開。リヴァーを偲びつつ、ぜひともご覧いただきたい!

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