監督した長編映画は『ボーはおそれている』を入れても僅かに3本。にもかかわらず恐怖と狂気で世界を圧倒するアリ・アスター。キャリアと作品テーマをたどると、〝怖い〞だけではない、彼の作品に魅せられる理由が見えてきます。(文・アナイス/デジタル編集・スクリーン編集部)

母と映画を観るのが好きだったアリ少年

画像: 『へレディタリー 継承』より

『へレディタリー 継承』より

我々は、アリ・アスターを恐れている。長編監督デビュー作『ヘレディタリー 継承』で多くの観客にトラウマを与え、次作『ミッドサマー』でも嫌な後味を残し、2月16日公開の最新作『ボーはおそれている』で“恐怖”の玉手箱を開けるつもりだ。

そんな彼の作品を観るたびに我々は身を構え、今度は一体何を見せつけられるのか恐れてしまうが、最も恐れているのはアスター本人かもしれない。そして彼は常に、自身が認識するその恐怖に対する真実を描くと共に狂気的なコメディに書き換えるのだ。

A24の成長期に彗星の如く現れたこの監督は、ユダヤ系の家庭の長男としてニューヨークに生まれる。ジャズドラマーの父、詩人の母を持つ彼は、特に幼少期から母と一緒に映画を観て過ごす時間が好きだった。

10歳からアルバカーキで育ち、もともと作家を目指していたアスターは脚本を通じて映画製作に興味を持ち始め、高校時代に長編映画6本分の脚本を書いている。

しかし、実際の映画作りについての知識がなかった彼は2004年からサンタフェ芸術大学で映画の勉強を始める。2008年に卒業し、在学中に撮った初の短編『Tale of Two Tims』によって脚本家兼監督デビュー、本作をAFI Conservatoryに提出し入学が決まった。

在籍時から卒業後にかけて複数の短編を発表してきたアスターは、その間に『ボーはおそれている』の前身とも言える作品と、長編化に際した脚本をずっと書き続けている。しかし、最終的に『ヘレディタリー 継承』で長編監督デビューを果たすのであった。

ホラーはサブジャンル? 長編二作から見えるもの

画像1: ホラーはサブジャンル? 長編二作から見えるもの

ミャエル・ハネケの『ピアニスト』(2001)やラース・フォン・トリアーの『ドッグヴィル』(2003)など、作品の趣味も合う母に彼が『ヘレディタリー 継承』を初期カットの段階で見せると、観客の心配をよそに彼女は「楽しんだ」そうだ。

ドラマーの父の影響も、アスターの映画に「音」の仕掛けが多い点から窺える。彼は何度も同じ音(チャーリーの喉を鳴らす音や、ホルガ村の人が空気を吐く音)を繰り返して強調することで、観客の気付かぬうちにそれを恐怖の合図に変えていく。

画像2: ホラーはサブジャンル? 長編二作から見えるもの

芸術肌の両親から惜しみないサポートを受けてきたからこそ、本作をあそこまでダークな作品に作ることができた、と語るアスター。実は人生の数年間、家族と共に強い悲しみを感じた、辛い時期を送った経験があると言う。

そのとき彼は「僕らは呪われている」と信じてやまなかった。そして同じ想いをしたことがある人が他にもいるはずだ、と考えた彼はその経験と想いを軸に「悲惨な出来事が立て続けに起こることで、呪われていると感じた家族が“実際に”呪われている物語」を書いたのである。

本作を巡るアスターの発言で興味深いのは、彼がホラーではなく色濃いファミリードラマを、家族の関係性と苦しみと共に描くことに注力した点である。

従来の米映画の多くが、家庭内の悲劇を巡って家族の喪失や苦しみを描いても、最後には絆を深めて“みんな大丈夫”になることに、アスターは圧力を感じていた。現実ではいつもそうはいかない。悲劇を体験した後、落ち込んだまま回復しない人だっている。アスターはそんな“彼ら”の映画を作りたかったのだ。

画像3: ホラーはサブジャンル? 長編二作から見えるもの

二作目の『ミッドサマー』も、彼が長い交際の末に別れた恋人に対する失恋の気持ちを軸に制作した作品だ。つまり先述の二作はヒューマンドラマと失恋映画であって、ホラーはサブジャンルに過ぎない。

しかし家族の喧嘩や彼氏と関係が悪化していく様子を詳細に描くことで、その後に登場人物が感じる切迫感や絶望、ホラーを彼らが感じるレベルで我々も感じることができるのだ。

彼の映画には登場人物が過剰に泣いたり感情的になったりするシーンが必ずと言っていいほど用意されているが、そこで描かれるのは本当に家族を失った人間の悲しみ方や狂気であり、“真実”なのだ。

変化しない主人公、そこに意味がある

画像: ダニーの悲しみは最後までそのままだ(『ミッドサマー』より)

ダニーの悲しみは最後までそのままだ(『ミッドサマー』より)

彼の物語に“モラル”はない。多くの作品で主人公が試練を越えて変わるのに対し、アスターの映画の主人公は「変わらない」。そしてそれが重要である。

映画を通して道徳を描くことよりも、人間も物事も状況も簡単には変わらない、その真実をアスターは大切にするのだ。ピーターが酷い目に遭ったまま、ダニーが悲しみを抱えたまま終幕を迎えることに意味があるのだ。

正しさを説教することも、ポジティビティを押しつけることもしない。どこまでも正直な感情をキャラクターに持たせるからこそ、アスターの作品は恐ろしく、過剰に絶望的でありながらもどこか理解でき、居心地が良いのかもしれない。

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