最初は怪しい雰囲気の男優だった
マイケル・ケインという俳優、初めて顔を見た時、すぐに好感を持ったわけではない。彼の演技を初めて見たのは『探偵<スルース>』(1972年)。シェイクスピア映画の重鎮のローレンス・オリヴィエと彼の家で対決する物語。
オリヴィエ扮する作家の妻とケイン扮する美容師が愛人関係にあり、ふたりの男たちが言葉を武器にマウントを取り合う。裏に何かありそうなふたりゆえ、次にどんなことが待っているのか予測がつかない。晩年は悪役でもすごみを見せていたオリヴィエを相手に何ともブキミな対戦相手。顔はハンサムだが、なんだか、あやしい。マイケル・ケインはこの映画でそんな強烈な印象を残した。
そのイメージはずうっと続いた。さらに強烈な倒錯感があったのがブライアン・デ・パルマ監督の『殺しのドレス』(1980年)。心理学者という設定は知的なはずなのに、実は性のアイデンティティに苦悩している役で、後半、彼が白衣の看護婦コスチュームで出てくる場面にはびっくり! 苦笑を誘う場面でもあるが、このような役を引き受けてしまうケインがすごいと思いつつ、さらに“あやしさマックス”。
初のオスカー受賞作『ハンナとその姉妹』
さらに『デス・トラップ 死の罠』(1982年)は『スルース』のバリエーション的な役で、妻を殺された彼と彼のゲイの愛人のクリストファー・リーブとのかけひきにスリルがあった。そして、強烈の極め付きはオリバー・ストーンの監督デビュー作にして怪作の『キラーハンド』(1981年)。勝手に殺人をおかしてしまう“手”の持ち主で、その狂気あふれる顔が脳裏に深く刻まれ、ただただ、あやしさしかない…。
一方、そんな彼のやわらかなユーモアセンスが発揮されていたのが、ウディ・アレン監督のヒット作『ハンナとその姉妹』。魅力的な妻の妹に恋をして、あの手、この手と、策を練る。実は待ち伏せていたのに、本屋で偶然あったふりをする場面など、ケインの怪しさが笑いにとってかわった。妻の妹を口説こうとする設定は怪しいが、なんだか、憎めない人物像で、見事、アカデミー助演男優賞も手にした。
次に彼がオスカーを受賞したのが、99年のジョン・アーヴィング原作の『サイダーハウス・ルール』の医師の役。孤児たちを育て、息子のようにかわいがる主人公。手術の技術も主人公に伝授するが、その技術というのが、堕胎のワザ。このあたりは、さすが、怪しさを隠せないケイン。ただ、年を重ねた彼は、人間的な豊かさも身に着け、こちらも愛すべき人物像になっていた。
1960年代のヒット作、ハリー・パーマー・シリーズ
なんだか裏がありそう。そんな人物像は、彼が頭角を現した1960年代から得意としていて、出世作『国際諜報局』(1965年)のハリー・パーマー役からして、裏があった。彼はスパイなので、裏がないはずがない。ただ、見た目は平凡なサラリーマン風で、スパイに見えない。そのギャップがおもしろかった。黒ぶちメガネも妙にケインに似合っていたが、よくよく見ると、そのメガネの向こうには、ちょっと怪しい目がキラリ……。
ハリー・パーマーは、当時の人気スパイ、ジェームズ・ボンドのようにスーパーヒーロー的な活躍は見せることはなく、どこか頼りない。でも、そこが魅力だった。このレイ・デイトン原作のスパイ物はシリーズとなり、その後、『パーマーの危機脱出』(1966年)やオフビートな感覚のケン・ラッセル監督の『10億ドルの頭脳』(1967年)も作られた。
60年代にケインが初のオスカー候補になったのはプレイボーイ役を演じた『アルフィー』(1966年)。複数の恋人がいる、という設定で、やっぱり、本心が分からない。当時のケインはスーツやトレンチコートが似合うクールな男優で、コミカルなアクション映画『ミニミニ大作戦』(1969年)、英国ではカルト的な人気を誇るクライム物『狙撃者』(1971年)にも主演して人気を得た。
これまでオスカー候補は主演4回、助演2回で、前述のように助演の2回は受賞。主演は『アルフィー』以外は、前述の『探偵<スルース>』、主婦の生徒と心を通わせる大学教授役の『リタと大学教授』(1983年、日本ではビデオ公開)、若い女性に恋をする中年男性の悲哀を演じたグレアム・グリーン原作の『愛の落日』(2002)がある。年を重ねることで柔らかで人間的な豊かさも身に着け、渋くて円熟した演技を見せるようになった。
晩年はノーラン作品に連続出演。渋い演技で存在感を発揮
特に晩年はクリストファー・ノーラン監督の作品に7回の出演。『ダークナイト』シリーズ(2005~12年)の主人公の世話をする執事の役、『インセプション』(2010年)の孫と暮しながら主人公の帰りを待つ祖父の役など、誠実な人物像も渋く演じられる俳優になった。
若い頃からダンディでおしゃれな雰囲気はあったが、それがさらに円熟した形で発揮された音楽家役の『グランドフィナーレ』(2015年)、老人の強盗団のひとりをユーモラスに演じたコメディ『ジーサンズ はじめての強盗』(2017年)など彼の良さが発揮された作品だ。
出世作の1本『探偵<スルース>』はジュード・ロウとの共演、ケネス・ブラナー監督でリメイク作『スルース』(2007年)も作られ、かつてオリヴィエが演じた役を、 今度はマイケルが演じて、熟年の魅力を見せた。
引退作『2度目のはなればなれ』で元軍人役を好演する
そんな彼の引退作となったのが、新作『2度目のはなればなれ』。ケイン扮する主人公のバーニーはグレンダ・ジャクソン扮する愛妻と老人ホームで穏やかな日々を送っているが、ある時、ホームを抜け出してフランスのノルマンディに渡る。第二次大戦の時、彼はそこで戦ったが、戦友に対して忘れることのできない思いをかかえている。その過去の痛みに向き合うため、彼はこの土地を訪ねるのだ。
彼が長年、胸に秘めた思いが、後半、徐々に明かされ、戦争の傷跡や悲惨さがにじむ。世界が分断している今だからこそ、そこに静かに込められた愚かな戦争に対するメッセージに胸に打たれる展開だ。まもなく90歳になろうとしているケインの顔には、数々の皺が刻まれているが、そこには長年、生きてきた人間だけが持つ、無言の深いエモーションも秘められている。
長年、彼を見てきたファンには、彼がそこにいるだけで映画の醍醐味を感じることができるだろう。そして、彼のことをよく知らない観客は、そのジイサマ俳優のただならぬ存在感にひきつけられるはずだ。冒頭の海を見つめる場面だけで、演技の中にひきこまれてしまう。
この映画に満足してケインは引退を決意したようだが、彼にとって見事な引退作になっている。これまで130本以上の作品に出演してきたというケイン。ここにあげたタイトル以外にも、忘れがたい作品はたくさんあるが、俳優としての終着駅がこの映画であったことは本当に幸運だったと思う。
主人公は老人ホームでは妻思いのよき夫と思われてきたが、そんな彼が妻以外の他人には内緒でホームを抜け出す。その設定は、かつて裏がある役が得意だったケインらしくていい。
後半は、ホームを抜け出したスーパー老人(?)としてセレブのようになっていくが、そのコミカルな展開も、この男優にぴったりだ。粋なユーモアがあり、人間的な豊かさもあり、悲哀もあり、そして、謎めいたとこもある。そんなバーニー役は本当にはまり役だ。肩の力を抜いた演技を見ていると、気持ちがほっこりする。
著述業でも力を見せるケイン
ケインは著述業でも評価されていて、日本では「俳優の演技 映画を作る時の俳優の役割」(劇書房、矢崎滋訳)や「わが人生。名優マイケル・ケインによる最上の人生指南書」(集英社刊、太田黒奉之訳)が翻訳されている。
後者を読むと、すごく前向きに人生を受け止め、たとえ、失敗しても、次のチャンスを大切にしてきた男優だったことが分かる。晩年に関しては「自分がもう若くないことを残念がったりはしない。時間の無駄だし、自分が若いつもりで仕事をしている。若いころはとても楽しかったし、いまは老いを楽しんでいる」と書いている。このポジティブさこそ、俳優として70年近いキャリアを歩めた秘訣だろう。
近年はミステリー作家としても英国では評価されている。俳優を引退しても、文章を書く方は続けるのではないだろうか?
彼自身の遺言状のようなドキュメンタリーが製作総指揮とナレーションを担当した『マイ・ジェネレーション ロンドンをぶっとばせ』(2017年)。1960年代は英国の激動期で、それまでの社会の価値観が変わり、ケインのようにワーキング・クラスの男優も映画界で活躍できるようになった。そんな60年代の映画や音楽、ファッション、写真、アートなどの変化について語ったスリリングな作品だったが、「青春は気持ちの持ち方次第で、いつまでも続く」という内容の最後の言葉にも胸を打たれた。
今回の新作で演じたバーニーも、(いい意味で)青春のかけらを胸に抱いていて、老年期でありながら、異国の冒険に出る。深い皺はあっても、さっそうとした雰囲気も残すケイン。その最後のヒューマンで温かい演技をいつまでも記憶の奥にとどめたい。
『2度目のはなればなれ』
全国公開中
監督:オリバー・パーカー
脚本:ウィリアム・アイヴォリー
出演:マイケル・ケイン、グレンダ・ジャクソン、ダニエル・ヴィタリス、ローラ・マーカス、ウィル・フレッチャー
2023年/イギリス映画/英語/97分/原題:The Great Escaper/
戸田奈津子/配給:東和ピクチャーズ
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公式HP:hanarebanare.com
公式X:@TowaPictures(#2度目のはなればなれ)
(予告)次回は『2度目のはなればなれ』でマイケル・ケインと共演したグレンダ・ジャクソンを取りあげ、そのキャリアと魅力を紹介します。ご期待ください!