『BTTF』公開が楽しみだった14歳の映画好き中学生
「マイケル・J・フォックスが来日します!」
当時、いくつかの映画雑誌、音楽雑誌を愛読していた私は、1985年の夏、ある雑誌の裏ページでこのニュースを知りました。まだ『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は日本公開しておらず、全米で大ヒットをしている映画であり、製作総指揮には『レイダース/失われたアーク』(1981年)や『E. T. 』(1982年)を監督したスティーヴン・スピルバーグが名を連ねているという記事だけで、勝手に盛り上がっていた14歳の映画好き女子中学生は、映画の公開を楽しみにしてたのです。
マイケルに会える予感!そして忘れられない出来事が
運良く東京生まれの東京育ちで、親が映画好きだったこともあり、地上波でのロードショー番組はほぼ全て見られ、映画館が立ち並ぶ有楽町にも電車で一本20分という距離に住んでいたことで、私にとって映画はとても身近な存在でありました。だからこそ「スクリーン」が公開前の洋画情報を提供してくれることは映画館へ行く楽しみを倍増させてくれ、まだ日本の劇場では目にしていない新人スターを知るきっかけとなる有難い雑誌でもあったんです。そんな中、大ヒット作のスターが初来日を果たすと知ったらティーンのミーハー心はくすぐられるに決まっています。洋楽好きの同級生から、海外のアーティストに会える方法を教えてもらった私は、この年、来日したフィービー・ケイツ(『グレムリン』)からもサインを貰えるという成功体験をしたばかりでした。だからマイケル・J・フォックスにも会える予感しかなかったんですよ。“あのホテルの周辺に居たらバッタリ会えるんじゃないか⁈”そんな妄想から1985年の9月も、日比谷公園の目の前にある某ホテル前や公園の前を行ったり来たりしていたのでした。
今も当時のことを覚えています。まるで絵に描いたようなシチュエーションだったことを。時間を持て余し諦めかけたその時、スケボーに乗った外国人が颯爽と日比谷公園から出てきたのでした。その姿は紛れもなく、マイケル・J・フォックスその人。あまりの展開の早さに戸惑いつつ、中学生イングリッシュで話しかけると足を止めてくれ、メモにサインを書いて、爽やかな笑顔でまたスケボーで走り去っていったスター。体感時間を考えても多分、30秒にも満たない瞬間の出来事だった気がします。そのお陰で、「スクリーン」のページを破いて、マイケル・J・フォックスの写真と小さなメモに書かれたサインを透明下敷きに挟んで授業を受けていた中学3年生の私は、もはや恋する乙女でした。

さとりさんの前に颯爽とスケボーで現れたマイケルは編集部にも妙技を披露してくれました。
1985年は人生の舵を切るきっかけとなった年
その後、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の公開初日に日比谷の映画館へ行き、生で拝んだ通りの姿が大スクリーンに現れた感動は、言葉では言い表せません。見事にマーティに影響されて貯金を叩いて、彼が使用していたAIWAカセットウォークマンを購入し愛用。それでヒューイ・ルイス&ザ・ニュースが歌う主題歌「パワー・オブ・ラヴ」をリピートしていたあの頃よ。ご察しの通り、マーティと同じ色である赤のダウンベストを親に頼んで購入し、スニーカーはマーティが現代で履いていたナイキではなく、1955年にタイムスリップしていた際に履いていたコンバースのオールスターを。更に中古のスケボーを従兄弟から貰い、なんとか上手くなりたいと毎日、帰宅後に練習したあの冬。思えば1985年は、私の人生そのものを映画の方向に大きく舵を切るきっかけとなった年でした。だって『グーニーズ』の子役達が11月に来日した際にも会え、もはや未来は映画の仕事しかないと思ったのだから。なのに何故、マイケル・J・フォックスのサインが見当たらないのか。こんな時こそ、デロリアンに乗って40年前にタイムスリップして昔の自分に伝えたいのです。「絶対に無くすなよ、後悔するから」と。


1985年の9月に来日したマイケル。
色紙へのサインから撮影までとてもフレンドリーに対応してくれました。
PROFILE
伊藤さとり Satori Ito
(映画パーソナリティー&心理カウンセラー)
邦画洋画問わず500本以上の映画を鑑賞。「新・伊藤さとりと映画な仲間たち」俳優対談YouTube番組を待つ。「ひるおび」TBS「めざまし8」CX他で映画解説を務める。映画セリフ本『愛の告白100選』出版。舞台挨拶MCも多く担当。映画賞審査員ほか。心理カウンセラーの資格から映画を心理学的に分析するのも得意。


