イスラエルの映画監督で、フランスを中心としたヨーロッパで国際的な評価を得て、数々の映画作品を世に送り出してきた、鬼才にして巨匠であるアモス・ギタイ。饒舌の限りを尽くすかのようにして、問題作などを生み出しては問いかける、世界レベルの注目すべき監督の一人となっている。今年の東京国際映画祭のコンペティション部門に、新作『ポンペイのゴーレム』を出品して注目を集めた。映画祭での上映のために来日したギタイ監督に、新作との取り組みへの想いを探るインタビューを試みた。
              

鬼才にして巨匠。イスラエルの想いを世界に伝え続けるギタイ監督

アモス・ギタイ監督は、1950年にイスラエルのハイファに生まれ、建築家の父と同じ建築家をめざし、イスラエルの大学に学ぶかたわら、建築を題材にした実験的映像制作にも取り組んだという。国営テレビで多くのドキュメンタリー作品を作るようになるも、当局から非難を受け放送禁止になる作品もあり、パリに拠点を移して精力的に劇場用作品に取り組むようになる。

『エステル』(1985)『ベルリン・エルサレム』(1989)『ゴーレム、さまよえる魂』(1992)は亡命三部作と呼ばれている。自ら従軍して体験したという1973年に勃発したヨム・キプール戦争(第4次中東戦争)を描いた、『キプールの記憶』(2000)はカンヌ国際映画祭に出品し、日本でも劇場公開された。

他にも同映画祭のコンペティション部門への出品は多数を極め、『フリー・ゾーン~明日が見える場所~』(2005)では、出演したハンナ・ザズロが主演女優賞を獲得。ヴェネチア国際映画祭でも、『エデン』(2001)をはじめ出品した作品が多数ある。

また、『フリー・ゾーン~明日が見える場所~』でのナタリー・ポートマン、『撤退』(2007)でジュリエット・ビノシュとジャンヌ・モロー、『幻の薔薇』(2010)ではレア・セドウなど、フランスを始め国際的に名だたる女優たちを次々と起用するなどの実力を発揮。

さらには、自らの作品だけでなく、アメリカの9・11同時多発テロをテーマにした『11’09”01/ セプテンバー11』(2002)や、『それぞれのシネマ』(2007)など、世界で活躍中の監督が集って完成させた、オムニバス映画にも作品を提供し名を連ねている。

自身が俳優として出演することも少なくなく、映画への取り組み方も多岐にわたる。発表された多くの作品は世界的に特集、回顧上映が繰り返し行われ、日本でも東京国際映画祭、東京フィルメックス、日仏学院、アテネ・フランセなどで上映のたびに注目が集まり、映画人たちからのリスペクトも多大だ。

1999年の第12回東京国際映画祭では、シネマ・プリズム部門で『カドッシュ』(1999)が上映されている。イスラエルの思想や文化を映画で発信し続けていることへの評価として、数々の受賞に輝き、フランスからはレジオン・ドヌール勲章や芸術文化勲章を贈られている。

伝説的守護神ゴーレムへのこだわりは続く

先に触れた『ゴーレム、さまよえる魂』では、サミュエル・フラー、ベルナルド・ベルトリッチ、フィリップ・ガレルなどの名だたる監督を出演させ、アメリカ、イタリア、フランスなど国境を越えて共感を集める映画作家としての評価を確立した。

この作品を含む、『ゴーレムの誕生』 (1991) 『石化した庭』 (1993)を発表、ゴーレム三部作とされる。今年の東京国際映画祭のコンペティション部門に出品した『ポンペイのゴーレム』の上映は、ゴーレム三部作に続く、新たなゴーレムの登場であることが興味深い。

眼を見張る演出で幻惑されるこの作品は、「ユダヤ伝説の粘土で作られた人造人間で、追い詰められる者を守ってくれる」と言われているゴーレムが、ギタイ監督にとっても「守護神」であることを目の当りにさせる。

そこにはゴーレムの存在が、どのくらいギタイ監督の映画づくりの根幹であり、象徴的なメタファーであるかの答があったように感じられた。これまでのゴーレムへのこだわりの作品を想い起こしながら、今回の映画祭での上映というものが大変貴重なものであることを痛感させられた。

フィクションとドキュメンタリーを交差させた、『ポンペイのゴーレム』

最新作の『ポンペイのゴーレム』は、ギタイ監督自らがイタリアのポンペイで公演した舞台劇『ゴーレム』の映画化だ。ポンペイを舞台にしたのは、ベスビオ火山の噴火で一瞬にして廃墟となった都市ながら、現在もそのまま保存されている場であることに強く惹かれたとギタイ監督は言う。

画像: フィクションとドキュメンタリーを交差させた、『ポンペイのゴーレム』

その公演を単にライブ・ビューイングとして映像化するのではなく、ドキュメンタリーとフィクションを交差させた、ユニークで幻想的な映画作品として完成させている。芸術作品としても見応えがある。

ユダヤの民族的な流浪と迫害の歴史や、イスラエルの現在の立ち位置を世界に向けて映し出そうとする試みが勇気を感じさせながらも痛々しく映る。ユダヤ民族独自のイディッシュ語や、多国籍の言語を採用して、比類なく野心的な作品となっている。

クシシュトフ・キエシロフスキ監督の「トリコロール」三部作の最終作にして遺作となった、『トリコロール/赤の愛』(1994)で主演し、日本でも人気を集めたポーランドの女優イレーヌ・ジャコブが舞台でゴーレムになり、映画では冒頭にも登場する。

冤罪で追い詰められるユダヤ人が、ゴーレムの証言で潔白を証明するという内容には、排斥され続け祖国を求めたユダヤ民族の想いが色濃く描かれるが、希望も感じさせる、作家のバージニア・ウルフの言葉の引用も巧みだ。

今年の東京国際映画祭のコンペティション部門での受賞は叶わなかったが、今まさに続いている、イスラエルとパレスチナとの究極の対立の最中にあって、誰もが自国のアイデンティティを改めて考えるべき時代を迎えたことへのヒントを投げかけてもいた。

東京国際映画祭のコンペティション部門に出品するエネルギー

——私は今まで監督の作品は、東京フィルメックスでの上映を拝見したり、お話もうかがってきました。今回の新作は、東京国際映画祭のコンペティションに出品されました。フランスからも勲章を受勲されている巨匠のギタイ監督がコンペティションで、映画制作は初めての監督たちと競うということの心境はいかがなものでしょうか。

そうですね。私はこれまで、カンヌやヴェネチアの映画祭にも多数出品して来ました。

そして、それぞれのプログラミング・ディレクターに信頼を持って進めて来たのです。映画祭という組織というより、人との繋がりを大切にしています。ですので、東京国際映画祭のコンペティション部門という枠組みの広がりを多様なものにしたいという、ディレクターの市山尚三氏の洗練されて知的な映画への考え方や趣味を信じて賛同していますので、喜んでこの映画祭に出品しました。

——そうでしたか。それにしても今回のご出品は、すごく若々しい、フレッシュな取り組みに思えてなりません。

そうですね。やっぱり映画を作り続けるためには、ある種の若さみたいなものが必要なんだろうと思います。物を作るためには、物事を問わなければいけない。それは世界に問いを投げかけることもさることながら、自分自身を問い続けることにもなる。若さということに定義があるとしたら、自分自身にチャレンジし続けられるようなエネルギーがあることが、若さなんだろうと思います。

演劇を手がけ、それを映画化することの意味とAIの関係

——そして、今回は今までの映画作品でもとりあげていらした、民族的な守り神というかシンボルというか、ゴーレムの存在に再び取り組まれたということですね。しかも演劇で。そしてそれを映画化するというこだわりが凄いです。

これは私の深読みかもしれないし、感じたままにおうかがいしますが、ユダヤ民族の想いを描きながらも、今の時代の映画づくりについてのアンチテーゼとして、今回演劇に取り組まれたのではないかと。

というのも、AIが映画づくりにも台頭してきて、フランスではAIを映画制作に取り込むということには懐疑的だというふうにも聞いております。映画はやはり撮影して、劇場で上映し、それを観客が観に来て成り立つわけで、さらに演劇ですと、舞台と観客が同じ空気と時間を共有する場を生み出せる。

つまりはAIが使われて生み出そうとしている創作とは真逆な、アナログ的な取り組みが今必要であることを試みて、観客に投げかけてみたと感じられてならないのですが、その点はいかがでしょうか。

おっしゃるとおりですね。

AIについて否定するべきか肯定するべきかは、我々の立場で言うべきことでもないと思うのです。一方で、少なくとも時間の節約になったり、物事に対する情報やアクセスを増やすことができるという、肯定的な面があることもまた事実なんですよね。

画像: 演劇を手がけ、それを映画化することの意味とAIの関係

——そうですね。

ただ、AIには今まで人間が知ることが出来、知ることのなかった新しいプロポジション、新しい提案をすることだけは、絶対にできないわけです。

ですから、私自身のやっている仕事でAIを使うとしたら、すでに存在している知識を整理したり、組み合わせたり、過去に必ずあったものを提案させるということしかない。

それに対して私自身の創作というのは、常に自分が今まで知らなかったものを探りたいということであって、多くは無意識だったり直感での様々な繰り返しで手探りで、これだ、と見つけていく「発見の旅路」みたいなものなのです。

——なるほど。そのとおりですね。

作り手も、どういうものが出来上がるかというものを、作ってみないとわからない世界ですから、こういうことは絶対にAIはできないわけですね。

で、映画というのは、今の時代においても、大いに役に立つメディアだと思うし、その中で今、映画が取り戻す必要があるのは、いわゆる手作り感覚だと思います。職人仕事の感覚というものを取り戻すことこそ、新しい映画の世界が広がっていくんだろうと、私は今考えています。

さらに演劇の場合は、生の観客との直接のやり取りになるわけで、これはまた絶対にAIで出来ることではないですから、直接に世界に触れる、生身に触れるということを、これから考えていかないといけないと思っています。

イスラエルの持つ誇りと強さとは何か

——素晴らしいお話です。ありがとうございます。

それで、イスラエルのことになりますが、少し長くなります。私の経験ですと、80年代終わりから90年代のあたりにイスラエルの政府観光局から、イスラエルは素晴らしい観光地でもあるので、日本の女性誌などで紹介して広めて欲しいという依頼をいただき、ご招待いただいたことがありました 。

テルアビブや嘆きの壁にも行きましたし、死海にも浮かんでみましたし(笑)、死海ではエステもあって泥パックもしました。エルサレムは美しい都市でした。しかし、自動小銃を持った兵士が市街を歩いていて、そうしている間に催涙弾が商店街に投げ込まれて、慌ててホテルに戻った経験を記憶しております。

そして、オフラ・ハザというフランスや日本でも人気が出たイエメン系イスラエル人の歌手のインタビューをしましたら、自分の歌う歌は常に「お隣さんとは仲良くしたい」というような内容なのだと彼女は言っていました。ギタイ監督の今回の『ポンペイのゴーレム』は、世界が平和になることを願う言葉を沢山込めた芸術活動だと感じられましたが、その点はいかがでしょうか。

もちろんそれはそのとおりです。冒頭のバージニア・ウルフの言葉を引用した台詞も入っていますからね。ただ、非常に興味深いことには、その平和を願うということを言うこと自体が、今のイスラエル文化の文脈では反逆的な態度になってしまうということなんです。

今後何が起こるかについての、決めつけた物事の考えをすることは許されないわけです。

私はその巨大な力に対しては反対し続けたいと思うと同時に、イスラエルの人々が本来持っているはずの何かの圧迫に対して、反逆する心や力というものがあることを信じ続けたいと思っています。

イスラエルにある観光地としての死海であるとか、イスラエルの美しさというものも誇るべきですが、イスラエルの人たちが本来持っている、物事を変えようという意思、抵抗して物事を変えていこうという意思というのが、イスラエルの最大の力なんだろうと思うのです。

まあ、それはユダヤ文明の起源に遡ることだと思いますし、もう3000年くらい前からのことですけれどね。

画像: イスラエルの持つ誇りと強さとは何か

——そういう想いも作品から感じられました。

例えば、アインシュタインですが、あの歴史上において重要で偉大なユダヤ人の科学者は、イギリスの科学者ニュートンを尊敬しながらも、彼の考えていることを覆していくことが自分には出来る、許されているんだということを考えたから相対性理論が生まれたのですよ。

無血で最強の武器が、演劇であり映画である

——そういう意味からも、演劇をなさるということは、映画にもちろん言葉があるのですが、映画以上に演劇には生の言葉がどんどん出てきます。 で、これって無血の凄く強い武器ではないかなと感じました。今回の『ポンペイのゴーレム』を観ていると。

そのとおりですね。

そもそも、演劇以前に映画や、あるいは芸術というのは、消費されるものではなく、解釈されるものとして受け取って欲しいといつも思うのです。

だから、映画の上映が終わった時が、スタートなんです。今度は観客の再解釈が始まる。そこであの映像は何だったんだろうとか、家に帰って寝ながらも考えて、その中で見たこと、聞いたことの体験の出発点になる。優れた映画作家というのは、それを提供する者だろうと思います。例えばロベルト・ロッセリーニだったり、ジャン゠リュック・ゴダールであったり、小津安二郎たちは、そういう出発点を観客に与えてくれるから、偉大な映画作家なのです。映画というのは、そうやって楽しまれるべきものなんだろうと思うんです。

画像: 無血で最強の武器が、演劇であり映画である

——だからこそ、強い武器なんですね。これからも続けますか?

そうですよ。で、今後も続けるということについては、私の母のことを言いましょう。母は常に大の演劇ファンだったんです。私が映画を作り始めた時に、映画もいいけれど、演劇は本当に素晴らしいものなんだと言い続けていました。彼女も亡くなったのですが、亡くなってから、母の言うことを素直に聞こうと思うようになってきたこともあります。

第一戦の女優たちを、次々作品に起用する才能

——そうだったんですね。良いお話です。で、今回の作品では、いろいろな国の方を起用するにあたり、ポーランド人であるイレーヌ・ジャコブさんをゴーレムになさった。彼女はゴーレムになることをすぐ受けいれたのですか?

彼女とは2024年に発表した、(日本では上映していない『シクン:原題Shikun』『ホワイ・ウォー:原題Why War』)2作品に出演してもらい、『ポンペイのゴーレム』で、彼女の三部作を終えたと言える関係です。彼女はこの三つのプロジェクトすべてにおいて、大きな推進力と存在感を発揮してくれました。

——そうでしたか、素晴らしい女優さんですね。

彼女の父親は、著名な核物理学者で、彼女の働きかけでフランスの核物理学者を紹介してもらったりしました。その方はゴーレム神話に非常に興味を持った人物でしてね。そんな時にも想い出したのは、何度か仕事をした女優のジャンヌ・モローのこと。彼女は演劇や映画は、これから手がけたい未知のことを知るための良いきっかけにもなるものなんだと言っていたんです。

——ギタイ監督は、素晴らしい方々に囲まれていらっしゃいます。イレーヌ・ジャコブにしても、フランスの名だたる女優たち、ジャンヌ・モロー、ジュリエット・ビノシュ、レア・セドウなどを思うように出演させてしまう引き寄せ力は凄いものです。ご自身ではそういう才能をどのように思われていますか。

フランスに限らず、ナタリー・ポートマンや、レザムンド・パイクも素晴らしい女優でしたね。
言うなら、私は最高の女優としか仕事はしないんです。プロの女優として信用できる人たちですから。何を創作するにしても、相互に信頼し合っているというのがとても重要なんです。

——そういう意味でも、フランスは映画づくりには良い場所ですか?

そうあり続けて欲しいですね(笑)。

——今後、起用したい女優さんは、いらっしゃいますか?

そうですね。新しい人材が入ってくるのは常に歓迎しますが、長く上手くいっていて信頼関係が出来ている人との関係を、わざわざ途中でやめる必要はないと思っているので、 今後も何回も同じキャステイングを選ぶこともあるでしょう。

——興味深く、奥の深いお考えを沢山お聞かせいただき、ありがとうございました。

画像: 第一戦の女優たちを、次々作品に起用する才能

(インタビューを終えて)

自分は映画監督ではなく、建築家なんだとも言うアモス・ギタイ監督。映画や演劇という強い武器を持つ偉大な芸術家である。

その武器のシンボルが監督にとっての「ゴーレム」であり、その存在に流浪であった民が、苦しみや悲しみを託しメッセンジャーとしてたびたび登場させてきたのだ。ギタイ監督の、まさに守護神に他ならないゴーレムの存在が明らかになった新作であった。

インタビューの答は、饒舌にして時に重厚で、時に軽妙になる知性溢れるもの。

その会話の巧みさが多くの第一線の女優たちをも魅了して、彼女たちに自らのメッセージを託すことを可能にする。稀有な才能の持ち主だ。

インタビュー中に、控えめで静かに監督の傍らで微笑んでいらした夫人は、いかにも良きパートナーという印象だった。お待たせしたお礼に、「良いお応えを監督からいただきありがとうございました」と伝えると、「あなたの質問が良いからよ」と優しい言葉をいただいてしまった。

お母様のエピソードもさながら、公私共に多くの女性の愛に包まれて、ギタイ監督は、独創的な創作を続けていられるに違いない。

監督の言葉にあったように、今回のインタビューがゴーレムのこと、イスラエルとパレスチナのこと、フランスのこと、映画や演劇のことなどなど、過去と未来を見つめるスイッチになると、今も実感させられている。

アモス・ギタイ監督は、知の巨人と言うべきなのだ。

惜しいことに、ギタイ監督は映画祭のオープニング、クロージングのセレモニーのいずれにも登壇していない。それもあつて、このインタビューで直接お話しをうかがえることが、とても貴重な時間に思えた。感謝である。

画像: (インタビューを終えて)

(今年の10月27日から11月5日まで開催された第38回東京国際映画祭2025の11月4日にインタビュー実施。通訳協力:藤原敏史、撮影協力:工藤静佳。
アモス・ギタイ監督作品邦題は、劇場公開されていない作品でも、日本で映画祭や特集上映された際につけられたものを表記している。未上映作品のみ原題を記した)

『ポンペイのゴーレム』Golem in Pompei
第38回東京国際映画祭2025 10月28日、11月2日、11月4日上映
監督/アモス・ギタイ
出演/イレーヌ・ジャコブ、ローラン・ナウリ、ミナス・カラワニー、ミシャ・レスコーほか
エグゼクティブ・プロデューサー/ローラン・トリュショ、ジル・マソン、スティーヴ・ヘンデル、ベネデット・ハビブ
撮影監督/ダン・ブロンフェルド
編集/ユヴァル・オール
音楽/アレクセイ・コチェトコフ、キウマルス・ムサイェビ
原作/アイザック・バシェヴィス・シンガー、ヴァージニア・ウルフ
2025年/フランス/107分/カラー
フランス語、イディッシュ語、アラビア語、ヘブライ語、スペイン語、英語、ロシア語、ドイツ語
©AGAV FILMS/Photo by Simon Gosselin

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