アーサー・ミラーの古典的な傑作戯曲『みんな我が子』では母親役
英国映画界にはキウェテル・イジョホー(『それでも夜は明ける』2013)やイドルス・エルバ(『マンデラ 自由への長い道』2013)など、実力あるアフリカ系の男優もいるが、女優で特に注目したいのは、マリアンヌ・ジャン=バプティストではないだろうか。そのパワフルな演技力には圧倒されるものがある。
一般的には、英国の巨匠、マイク・リー監督とのコンビで知られていて、90年代の『秘密と嘘』(1996)ではアカデミー助演賞候補にもあがっている。

ジョー役のブライアン・クランストン(左)。妻のケイト役のマリアンヌ・ジャン=バプティスト(左から2番目)。アニー役のヘイリー・スクワイア―ズ(右)。アニーの兄との再会を喜ぶジョーの一家。
NTLive『みんな我が子』 Photo by Jan Versweyveld
そんな彼女の演劇人としての底力を知ることができるのが、アーサー・ミラー原作の舞台『みんな我が子』(初演は1947年)。これは2025年秋から2026年春まで英国で上演されて、名誉あるオリヴィエ賞では6部門にノミネートされ、最優秀リバイバル賞、助演男優賞(パーパ・エッシードゥ)は受賞。他にも主演男優賞(ブライアン・クランストン)、主演女優賞(マリアンヌ・ジャン=バプティスト)、助演女優賞(ヘイリー・スクワイアーズ)、監督賞(イヴォ・ヴァン・ホーヴェ)の候補となっている。
ナショナル・シアター・ライブで映像化が公開されているが、最初から最後まで緊張感が途切れず、アンサンブル演技で見せる作品になっている。

倒れた木の上に座ったケイト(マリアンヌ・ジャン=バプティスト)の心をさまざまな思いがよぎる。
NTLive『みんな我が子』 Photo by Jan Versweyveld
舞台は戦後のアメリカ。ジョーは戦時下に軍需品の製造で富を築いているが、欠陥品を販売したことが問題視されている。ジョーは無罪となるが、仲間だった男性が罪に問われ服役中。家族思いのジョーにはふたりの息子がいて、兄クリスは一緒に暮しているが、弟ラリーは戦地で行方不明のまま。母親のケイトは、そんな次男が生きていると信じて、帰りを待ち続ける。
ラリーには恋人のアニーがいたが、いまは兄のクリスと恋愛関係にあり、彼女はプロポーズを待っている。
彼女がクリスと結婚すると、次男の死を認めることになる。母親のケイトは、絶対にその死を認めたがらず、この話に難色を示す。また、アニーの父は、かつてジョーの仲間で、欠陥品の販売のせいで服役中だ。やがて、ジョーの過去の行動、行方不明だった弟に関する衝撃の事実が判明する……。

戦場で行方不明になった次男ラリーのホロスコープを見せてもらうケイト(マリアンヌ・ジャン・バブティスト)。
NTLive『みんな我が子』 Photo by Jan Versweyveld
ふたつの家族をめぐる物語で、ジョーの一家の父と母、長男と次男、かつて次男の恋人だった女性の一家を中心に物語が進む。家族への愛情、良心の呵責や罪の意識、安否が不明な人物をめぐる憶測、過去を乗り越えた再生への思いなど、さまざまな感情が交錯し、複雑な心理劇へと発展する。
作品が書かれたのは1940年代だが、アメリカを代表する劇作家、アーサー・ミラーの人間に関する奥深い洞察がうかがえる普遍的な家庭劇で、アメリカン・ドリームの終焉を告げる作品ともいわれている(日本では2022年に堤真一、伊藤蘭の主演で再演されたこともある)。
マリアンヌが演じるのは、息子の帰りを待ちわびる母親の役。周囲の人物たちが、彼を死者として扱うことにがまんができず、精神のバランスを崩しかけている。
その一途な思いが切ないが、ふと狂気を感じさせる瞬間もある。そんな母親の深すぎる愛と追いつめられていく心理をマリアンヌはリアルに演じ、女優としての凄みを感じさせる。
長年連れ添った夫とは、いまも愛し合っていることがうかがえ、妻として優しい表情を浮かべることもある。その微妙な心のバランスをマリアンヌは見事に表現している。

倒れた大木と後方にある月のような円が舞台の装置として使われ、人物たちの心理を代弁する。
NTLive『みんな我が子』 Photo by Jan Versweyveld
実力派の演出家、イヴォ・ヴァン・ホーヴェは、月のように舞台の奥に浮かぶ丸い空間の中に人物を立たせ、手前に立つ人物と対比することで、それぞれの人物の深層心理を浮かび上がらせる。シンプルな構成ながら、それぞれの人物の心の揺れがスリルを生む。
マリアンヌ演じるケイトの息子の恋人役はケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016)で貧困と向き合うシングルマザーを演じたヘイリー・スクワイアーズ。ここでは赤のドレスが似合う意思の強い女性を好演する。
現代の英国映画界を代表する2大リアリズム監督、マイク・リーとケン・ローチの主演女優たちが共演した作品にもなっている。
マイク・リー監督の『ハード・トゥルース 母の日に願うこと』の母親像との共通点
そのマイク・リーとマリアンヌが組んだ最新作は『ハード・トゥルース 母の日に願うこと』(2024)。2025年に日本でも劇場公開された。
こちらも『みんな我が子』同様、家庭劇で、マリアンヌが苦悩する母親を演じている点も共通点だ。こちらの舞台は2020年代のロンドンで、アフリカ系英国人の一家が軸となっている。
『みんな我が子』はシリアスなドラマだが、こちらの映画はリー監督らしくブラック・ユーモアの要素も入っている。

『ハード・トゥルース 母の日に願うこと』
主人公パンジー(マリアンヌ・ジャン=バプティスト、左から2番目)と妹シャンテル(ミシェル・オースティン、左)の一家は、母の日に食事会を開く。
© Untitled 23 / Channel Four Television Corporation / Mediapro Cine S.L.U.
マリアンヌ演じる主人公のパンジーは、ままならない人生にイラ立っている。家庭では、働き者で無口な夫にきつい言葉を投げつけ、引きこもりの息子にも小言をいう。
インテリア・ショップでは店員にケンカを売り、スーパーでも周囲の人に当たり散らす。ブチブチと文句ばかりを垂れ流す、”迷惑度100%”の人物。
ただ、中盤からは急に言葉が少なくなり、愛情深くて優しい妹、シャンテル(ミシェル・オースティン、好演)との会話を通じて、パンジーの心の奥の苦悩や悲しみが見え始める。

優しい性格の妹シャンテル(ミシェル・オースティン、左)の家で、これまでの思いを打ち明けるパンジー(マリアンヌ・ジャン=バプティスト、右)。
特に圧巻なのが、急に笑っていたかと思うと、泣き出す後半の場面。人生は喜劇と悲劇が紙一重。そんなマイク・リー監督らしい人生哲学がうかがえ、マリアンヌの感情表現のすごさに、ただただ、圧倒されてしまう。
深い感情の層がある役で、その演技のインパクトがいつまでも消えない(実は筆者は、マリアンヌを2025年の「スクリーン」誌のベスト女優に選出した)。
海外では、この時の彼女の演技は高く評価されていて、英国アカデミー賞の主演女優賞候補となる。また、ロサンゼルス、ニューヨーク、ロンドンの各批評家協会賞の主演女優賞も受賞している。
『みんな我が子』を見ると、改めてマリアンヌのすごさが分かった。ケイト役は『ハード・トゥルース 母の日に願うこと』ほど強烈な役ではないが、狂気すれすれまで追いつめられる母親の悲哀と痛みは、パンジー役に通じるところもあり、その骨太の演技に引き込まれる。

世の中に不満をぶつけながら生きる主婦のパンジー。マリアンヌの凄みのある演技に圧倒される。
彼女はもともと英国の名門、王立演劇学校の卒業生で、94年の舞台「尺には尺を」でイアン・チャールソン賞の候補となっている。また、93年の舞台「イッツ・ア・グレイト・ビッグ・シェイム」は、舞台演出家でもあったマイク・リーの作品で、ここでのコラボが『秘密と嘘』での彼女の抜擢につながった。
この作品では、自身の母親を探す若き女性の役で、マリアンヌの洗練された雰囲気と知性が光った。当時の彼女は有望な新人女優として評価され、マイク・リー監督の『キャリア・ガールズ』(1997)では音楽も担当している。
その後はアメリカに移住してテレビ番組「WITHOUT A TRACE/FBI 失踪者を追え!」(02~09)の捜査官役で好評を博す。映画は『ザ・セル』(00)、『スパイ・ゲーム』(01)、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(14)、『ピーターラビット』(18)等にも出演。さまざまな役を通じて、今は人間の複雑な心のヒダを見せることができる成熟した大人の女優となった。
『みんな我が子』のカーテンコールを見ると、このドラマでのシリアスな顔とは異なり、穏やかな笑顔がステキな女優に見える。また、マイク・リー監督と一緒に好きな映画のDVDを選ぶ番組をネット上で見たことがあるが、その時はお茶目でユーモアあふれる素顔を見せていた。彼女のそんな明るさが生かされた主演作にも期待したい。
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ナショナル・シアター・ライブ『みんな我が子』全国劇場にて上映中
作:アーサー・ミラー 演出:イヴォ・ヴァン・ホーヴェ
出演:ブライアン・クランストン、マリアンヌ・ジャン=バプティスト、パーパ・エッシードゥ、ヘイリー・スクワイアーズ、トム・グリン=カーニー
イギリス/英語/2026年/145分/原題:All My Sons
ナショナル・シアター・ライブ日本担当 カルチャヴィル合同会社
NTLive『みんな我が子』 Photo by Jan Versweyveld

『ハード・トゥルース 母の日に願うこと』ブルーレイ&DVD 好評発売中
ブルーレイ 価格 4,000円 DVD 価格 3,000円 *いずれも税抜き
監督・脚本 マイク・リー
製作 ジョージナ・ロウ 撮影監督 ディック・ポープ
出演 マリアンヌ・ジャン=バプティスト、ミシェル・オースティン、デイヴィッド・ウェバー、
ドゥウェイン・バレット、アニ・ネルソン、ソフィア・ブラウン、ジョナサン・リヴィングストン
イギリス/英語/2024年/97分/原題: Hard Truth
発売元 ニューセレクト 販売元 アルバトロス
©Untitled 23 / Channel Four Television Corporation / Mediapro Cine S.L.U.


