奇跡から始まった物語が、やがて「独自の命」を持って動き出す
──撮影当初、監督は「素晴らしい奇跡の物語」を聞くためにグルスポングへ向かいました。しかし、物語は「独自の命を持った生き物」のように予期せぬ方向へ突き進んだと語られています。物語が「奇跡」から「混乱」や「家族の崩壊」へと舵を切った決定的な瞬間、監督としてどのような葛藤がありましたか。
私の中では、これが「奇跡をめぐる物語」であることに変わりはありませんでした。ただ、撮影が進むにつれて、彼らにとっての「奇跡」の意味合いが変わっていったのだと思います。
当初の奇跡は、いわば扉にすぎませんでした。その扉を開けた先に待っていたのは、深い喪失感やアイデンティティ、信仰、そして家族関係の本質に迫る物語です。そして何よりも、私たち人間がいかに「信じること」を必要としているか、そして不確実な現実を受け入れるために、いかに自らナラティブを作り出してしまうか、というテーマに突き動かされていきました。
彼らにとって、起きた出来事自体はずっと奇跡であり続けました。しかし、プロセスを経ていく中で、その奇跡が持つ意味が変化していったのです。物語が奇跡でなくなったわけではなく、彼らにとっての「起きたことの意味」が、悲しみや家族の秘密、喪失といったものへと形を変えていきました。

──ドキュメンタリー作品は脚本がないので、いつ取材を終わりにするかの判断が難しいかと思います。本作ではここまでにしようと決めるきっかけや瞬間のようなことが何かあったんでしょうか。
当初の予定よりもずっと長く、結果的に4年間も撮影を続けることになったため、途中で資金が底をついてしまいました(笑)。撮影中は、次から次へと新しい出来事が起きたり新たな情報が出てきたりするので、「まだ終わりじゃない、続けなければ」「これでは永遠に終われないのではないか」と何度も思いました。現実の出来事を追っている以上、人生は続いていくわけですから、自然に「ここが終わり」と言えるような明確なポイントなどないのです。
ただ、撮影を終える一つの大きなきっかけとなったのは、彼女たちの家にいた時に、私の頭の上にランプが落ちてきた瞬間でした。それはまるで「もうここでストップしなさい」という、何かしらの啓示のように感じられたのです。
そしてちょうどその頃、彼女たち自身もそれぞれに結論を出し、折り合いをつけ始めていました。カーリとマイは「すべての疑問の答えを知ることはできないし、すべての真実を突き止めることはできない」と受け入れました。また、リータの娘のトリーネは「母親の死は自然死だったのだ」と信じることに決め、オーウラグは自分自身のアイデンティティを自ら定義しようと考えました。
ドキュメンタリーにおいて、物語が綺麗に完結することはなかなかありません。しかし、彼女たちが「もうここで終わりにする」と納得したそのタイミングこそが、私にとっても撮影を終わらせるべき瞬間となったのです。

──冒頭で、姉妹に当時の状況を再現させるシーンがありますが、これは編集者の提案で「監督の存在をにじませる」ために入れられたとのことです。ドキュメンタリーにおいて、あえて「演出」や「監督の視点」を可視化することには、どのような物語上の効果があると考えていますか。
最も大きな理由は、映画の後半でDNAテストの不可解な結果に対して私が声を上げるシーンや、カーリやマイ、オーウラグと電話で話しているシーンなど、私自身が作中に登場するからです。そのため、物語の冒頭から私の存在を自然に示しておくことが重要だと考えました。
一般的なドキュメンタリーであれば、監督がカメラの前に出てきてしっかりと自己紹介をするような演出が多いかもしれません。しかし私はそうではなく、制作のプロセスに対して「透明であること」を選びました。透明であることは、本物であることにつながると思うからです。
撮影中、現実とは思えないような信じられない出来事が次々と起きました。だからこそ、作り手として嘘偽りのない姿勢を示すことが非常に重要だったのです。冒頭で彼女たちに当時の状況を再現してもらったのも、実際に私がその場で出した指示だったからこそ、そのプロセスをそのまま見せたいと思いました。中には、私が作中に介在することで映画に逆効果を与え、物語に没入するのを邪魔していると捉える意見もありましたが、私はそうは思いません。あの瞬間の状況や私の立ち位置を、なるべくリアルに伝えたかったのです。
ちなみに、あのような演出的な指示を行ったのは冒頭のシーンだけで、それ以外の部分は一般的なドキュメンタリーと同じように、ただ、私のカメラの前で自然に起きた出来事をそのまま捉えています。

──4年間取材をされたということですが、長期間、取材対象者であるオーウラグとカーリ、マイと接しているうちに、監督として3人と一定の距離を保つのが難しく感じることもあったのではないでしょうか。
もちろん、出演してくれた全員に対して深い思い入れがありますし、みんながこの映画の仕上がりに納得してくれたことを心から嬉しく思っています。実際のところ、撮影を開始してからプレミア公開を迎えるまでには約5年という長い歳月が流れていました。
その長いプロセスの間、時期によって私や私のサポートを最も必要とする人は、その都度変わっていきました。ある時期はオーウラグがすごく私の助けを必要としていたので彼女と深く話をしましたし、別の時期にはカーリが私を必要としたので彼女に寄り添いました。その時その時で、彼女たちの求めに応じて距離感を変え、柔軟に対応しようと努めていたのだと思います。
撮影が終わった現在、一番よく連絡を取り合っているのはカーリですね。彼女は本当に優しい人で、私の子供たちや私のためにセーターを編んで送ってくれたりするんです。頻繁に電話もくれますし、「あなたの夢を見たから気になって電話しちゃった」とか、「今、あなたに私の祈りが必要な気がしたんだけど何かあった? あなたのために祈ってもいい?」なんて声をかけてくれたりもします。今でもそんな風に温かく繋がっています。

──オーウラグが80歳にしてアイデンティティを再定義しなければならなかった点に、監督は強い関心を寄せていらしたように感じました。「血縁」という客観的事実と、「人生の記憶」という主観的な物語が衝突したとき、人はどちらに重きを置くべきだと感じましたか。
何に重きを置くかは、その人自身の選択であり、それぞれが納得のいく方法を選べばいいのだと思います。他人が「こう生きるべきだ」「どちらが重要だ」と判断したり、批判したりすることではありません。
ただ、アイデンティティというものは、決して客観的な事実だけで構成されているわけではないのだと思います。自分自身が「何を信じることを選ぶか」もまた、アイデンティティを形作る重要な要素です。それは、私がこの映画作りを通して学んだことでもあります。
確かに現代において、客観的な事実に目を向けることは非常に重要です。特に環境問題のような大きな社会課題については、専門家の意見や確かな事実に耳を傾けるべきでしょう。しかし、自分自身の人生という極めて個人的な物語においては、自分にとって何が最善なのか、何を信じるべきなのかを自ら選択することが許されるべきではないでしょうか。
オーウラグは非常に理性的で論理的な人物なので、それまでの事実が揺らぎ、何を信じればいいのか分からない状況に置かれたことは、本当に辛かったはずです。彼女はただアパートを売りに出していただけなのに、自ら望んだわけでもない、思いもよらない事態に巻き込まれてしまいました。その中で彼女は、この状況を受け入れ、自分なりの向き合い方を見つけていかなければならなかったのです。

──監督は黒澤明、宮﨑駿、是枝裕和を好きな監督として挙げ、ご長男に「アキラ」と名付けるほど日本映画に親しみを持っていらっしゃいますね。彼らの作品が本作の演出や構成にどのような影響を与えていますか。
日本映画全般に対して個人的に感じているのは、世界を「すべてが論理的に割り切れるわけではない場所」として開かれた形で捉えている、ということです。私たちが最初に目にするものよりも世界はずっと広大で、魔法に満ちています。単に事実をなぞるだけの直線的な物語ではなく、「自分が信じているよりも、世界はもっと大きな場所なんだ」と心を開いて見つめるような価値観を、私は日本映画から強く感じてきました。そうした世界観や遊び心は、私自身の考え方としてこの映画にも取り入れられているかもしれません。
また、登場人物の描き方についても大きな影響を受けています。敬意を持って描くとき、その人物を決して一面的には捉えません。世の中は白か黒かだけで割り切れるものではなく、人間には非常に多面的なグラデーションが存在します。そうした人間の複雑さを丁寧に描く姿勢も、日本映画から学んだことだと感じています。

──パルメ首相暗殺事件を追う次回作も、非常にミステリアスな題材です。本作で学んだ「人間の主観的な真実」や「予測不能な物語の展開」という経験は、次回作にどのように活かされる予定ですか。
次回作もまさに、人々がどのように自分自身の「真実」を選び取るのか、そして人生における未解決の問いや悲劇と向き合うために、いかに自らナラティブを作り出していくのかを描くプロジェクトになります。
この暗殺事件は、未だに解決されていないスウェーデン社会の大きなトラウマであり、人々はそれぞれ異なる方法でこの傷に向き合っています。私が今回取材している人たちの中には、「犯人が誰なのか」を100%確信している人もいて、彼らはその確信を中心に自分たちの真実を組み立てています。つまり、この作品もまた「真実同士の葛藤」をめぐる映画なのです。
『グルスポングの奇跡』の出演者たちがそうであったように、彼らにもそれぞれのバージョンの真実があります。私はそのすべてをリスペクトしていますし、そこから生まれるあらゆる可能性にとても惹かれています。
そして『グルスポングの奇跡』と同様に、今回も「犯人は誰か」という明確な答えを出すことを目的にはしていません。物語は、今回も多くの問いを残したまま終わることになるでしょう。私自身はそれに何の問題もないと思っています。ただ、現実の人生は何が起こるか分からないので、もしかしたら撮影の中で犯人が明らかになるかもしれない、という予測不能な余地だけは残しています。

<PROFILE>
マリア・フレデリクソン監督
2012年、ストックホルム芸術大学で芸術学の修士号を取得。ニューヨークフィルムアカデミーで映画制作を学ぶ。Hot Docs カナディアン国際ドキュメンタリー映画祭、Visions du Réel、シェフィールド国際ドキュメンタリー映画祭、パームスプリングス国際映画祭などのさまざまな国際映画祭で短編ドキュメンタリーを上映してきた。長編デビュー作である『グルスポングの奇跡』は2023年にトライベッカ映画祭にてプレミア上映が行われ、2024年のスウェーデン・アカデミー賞〈グルドバッゲ賞〉では見事、最優秀ドキュメンタリー映画賞に輝いた。女性だけで設立された制作会社であるBallad Filmの創設者のひとりである。
©Filip Powidzki Casserblad
『グルスポングの奇跡』9月4日(金)池袋シネマ・ロサ シネマート新宿 ほか全国順次公開
映画『グルスポングの奇跡』予告|9月4日(金)全国順次公開
www.youtube.com<STORY>
スウェーデン在住の妹カーリを訪ねていたマイは、遊園地の乗り物で事故に遭ってしまう。怪我の療養中、気分転換にと2人はスウェーデンの小さな町グルスポングで家を探し始める。理想の家を見つけた2人は、売主の女性オーウラグと対面した瞬間、息を呑む。彼女は、何年も前に自ら命を絶った姉リータに瓜二つだったのだ。やがて、オーウラグはマイとカーリの異母姉妹であり、リータの双子の姉であることが判明する。1940年代、ナチス・ドイツ占領下のノルウェーでは、双子は人体実験の対象として狙われる危険があり、オーウラグはその運命から逃れるために誕生時に“死亡”と偽られ、別の家族に託されたのであった。奇跡の再会に酔いしれたのも束の間、家族の間にはやがて軋みが生まれ、封印されてきた痛ましい真実が少しずつ明らかになっていく。この出会いは、3人の人生だけでなく、亡きリータの死の真相までも揺るがしていくのだった。
<STAFF&CAST>
監督:マリア・フレデリクソン
出演:カーリ・クロー、マイ=エーリン・ストーシュレットゥン、オーウラグ・バッケヴォル・オストビー 他
2023年|スウェーデン・ノルウェー・デンマーク合作|ノルウェー語、スウェーデン語|114分|原題:Miraklet i Gullspång|日本語字幕:常磐彩|字幕監修:青木順子
後援:スウェーデン大使館、ノルウェー大使館、デンマーク王国大使館
配給:カルチュアルライフ
© 2023, Ballad Film, SVT, Film i Väst, Film Stockholm, Mer Film, Good Company Pictures. All rights reserved.
公式サイト:https://culturallife.co.jp/gullspangmiracle/



