世界中で特大ヒット中の「ジョーカー」。賛否両論さまざまな論争を巻き起こしているが、すべての人が口を揃えるのは“ホアキン・フェニックスはすごい!”。快演と怪演を積み重ね、唯一無二のポジションを築き上げてきた名優ホアキンの演技人生をたどってみよう。(文・川口敦子/デジタル編集・スクリーン編集部)

亡き兄リヴァーはホアキンの〝いま〞を予見していた?

画像: 1980年代 兄リヴァー(右)、母親と一緒の幼い頃のスナップ

1980年代
兄リヴァー(右)、母親と一緒の幼い頃のスナップ

「ジョーカー」での鬼気迫る快/怪演で、オスカーへの道の最前線を突っ走るホアキン・フェニックス。トロント国際映画祭では俳優への特別功労賞を受賞。今は亡き兄リヴァーをめぐるこんな逸話を披露してみせた。

「15、16歳の頃、仕事から帰ったリヴァーがこれを見ろと『レイジング・ブル』のビデオをかけたんだ。翌朝、僕を起こしてもう一度、同じ映画を見せると彼は言った。お前はきっとまた演技を再開するだろう。その時、こういうものを演じるようになるだろう──と。おかげで今の僕がある。彼には大きな借りができた。だって演技はこんなにも素晴らしい人生を僕に与えてくれたのだから」

1993年10月31日(ホアキン19歳の誕生日の3日後)、ドラッグの過剰摂取で帰らぬ人となった兄、その悲劇の現場に居合わせて以来、リヴァーにまつわる発言を頑なに回避してきたホアキンが意外にも自らすすんで彼への思いを語ったのは、「ジョーカー」で、演じることの喜びを究めたと確信したからだろう。

24キロもの減量を成し遂げて、悪の化身となっていく孤独なひとりを心身共に体現した「ジョーカー」でのホアキンの演技は、競演したロバート・デニーロが若き日にものした「タクシー・ドライバー」や「キング・オブ・コメディ」を想起させずにはいない。肉体を改造して役になり切る壮絶な演技魂は「レイジング・ブル」のデニーロのそれをまさに受け継いでいる。となると演じることに疑問を抱いていた15歳のホアキンを励ました兄は、「ジョーカー」でデニーロと対等に勝負する弟の演技の実りを、既に予知していたのかと不思議な感動を噛みしめる。「レイジング・ブル」でデニーロがオスカーを射とめたようにホアキンも、なんて思わず口走りたくもなる。

画像: 1986年 アドベンチャー映画「スペース・キャンプ」でデビュー(左端)

1986年
アドベンチャー映画「スペース・キャンプ」でデビュー(左端)

兄リヴァー、姉レーン、妹リバティーとサマーに挟まれた5人兄弟の二男坊ホアキンは、1974年プエルトリコのサンホアンに生まれた。父ジョンと母アイリーンは60年代末、ラブ&ピースなヒッピーとして放浪生活を続けた後、カルト的教団の宣教師になり中南米各地を転々とし、子供たちも歌やダンスを披露しつつ布教活動を手伝った。

ホアキンという名前は、聖母マリアの父ヨアキムにちなんだもので、ミドルネームのラファエルもまた癒しを司る大天使に由来している。待機中の新作「マグダラのマリア」でイエス・キリストを演じた彼に似つかわしい聖なる名前といえそうだ。

が、4歳当時のホアキンは兄も姉も大自然と結ばれた素敵な名前なのにと不満で、たまたまほうきでかき集めていた葉っぱから思いついてリーフという名に自ら改めた。

ちなみに改名はフェニックス家のお得意科目で、その姓フェニックスも元々は父方の姓ボトムズを名乗っていたけれど「どん底」の意にもなると心機一転、「不死鳥」と改めたもの。あるいは母アイリーンも今はハート、姉も本名レインボーからレーンに変えている。子役時代のリーフから突然、ホアキンへの復帰宣言にファンは仰天したが、一家にとっては普通のことだった?!

リーフとなった4歳の頃、両親が教団を離れアメリカへ。帰国の船上で、漁師たちが獲物の魚を壁に打ち付けて命を惨くも奪う様を目の当たりにして以後、リーフと一家は厳格な菜食主義者となった。その主義は兄妹にコマーシャル出演の話が来た時にも、コーラやハンバーガーはお断りと徹底的に貫かれる。身につけるものも元動物はダメ。プラダの顔として広告の撮影に臨んだ時もホアキンは革靴を拒否、足下だけ別人がモデルを代行した。

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