ネタバレがありますので、未鑑賞の方はご注意ください。
「ミッドサマー」アリ・アスター監督からのコメント
『「ミッドサマー」の壁や背景には、ストーリーが向かう方向性を示している預言的要素が隠されている。それを考えるのは楽しかった。映画の内容をバラしているものの、後ろのほうに小さく映るだけだから、映画を見るのが2度目じゃないと意味は成さないはずだ。2度目があればの話だけどね。
避けられない運命や変えられない結末に向かっていく場合、またジャンルでストーリーの行方がすでに定まっている場合、そういう預言的かつ補足的な要素を散りばめることに僕は喜びを見いだしている。ディレクターズカットの約3時間バージョンが、僕にとってはいわゆる完成版なんだ。ホラー要素が増えるわけではないが、コミュニティーのことがより深く理解できる。村の儀式や音楽に加え、登場人物の様子もより詳しく分かるはずだ。
特にクリスチャンとジョシュの卒論をめぐる争いや、ダニーとクリスチャンの関係性など細かい描写を楽しめる。エモーショナルな満足感をさらに得られるバージョンだ。もちろん通常の劇場版も好きだけど、どちらか選ぶとするならば僕はディレクターズカットだろうね』
──「ミッドサマー」アリ・アスター監督
ホラー嫌いにリーチ
ホラーというジャンル映画に対し、苦手意識を持っている人は性別を問わず少なくない。その理由は、「血しぶきや死体などのスプラッター描写が生理的に無理」「お化け屋敷のように驚かせる仕掛けが苦手」「そもそも怖いものが無理」など。
『ミッドサマー』は宣伝時に「フェスティバル・スリラー」という新たな形容を冠し、「ホラー」というワードを回避。予告映像でもそのものズバリの残酷シーンや死体のカットは使わずに、青空の下で繰り広げられる祝祭のシーンをメインにすることで、ホラー映画というだけで自動的にシャットアウトする層へのリーチに成功。
ちなみに筆者は数人のホラー嫌いの知人から「ミッドサマーって怖い?怖くないなら見たいんだけど」と質問され、「怖いのは人だよねっていう映画だから大丈夫!」と返答した。
ホラーのパターンを覆すポイントその1 ──男女の役割
主人公のダニーと恋人のクリスチャン、その男友達が、アメリカからスウェーデンの人里離れた土地にある共同体“ホルガ”を訪れて、悪夢のような体験をする「ミッドサマー」は、「男女のグループが見知らぬ土地で恐怖に遭遇する」という、ホラー&スリラーの王道を踏襲している。このジャンルでは、グループから1人、また1人と死んでいくにあたり、「性的に羽目を外そうとする男女」がトップバッターになるケースが多い。
しかし、「ミッドサマー」の場合は、ダニーからクリスチャンの気持ちは離れているので2人の間に性的な情熱はなく、男たちはスウェーデン女性との“交流”を楽しみにしている。ホルガにおけるタブーを破った男たちは次々と粛清されていき、クリスチャンは男性としての機能を利用される(ちなみに、彼らをホルガに招いたスウェーデンからの留学生ペレが、ボーイズトークをするクリスチャンに「スウェーデン女を妊娠させる」とさりげなく軽口を飛ばすという伏線あり)。
このグループにおいて味噌っかすだったダニーは生き残るだけでなく、90年に一度の祝祭で女王に選ばれる。近年増えている、女性が生き残るホラーやサバイバル映画の一本といえる
ホラーのパターンを覆すポイントその2 ──泣き叫ぶ女性像
ホラー映画では、美しい容貌の若手女優が絶叫して死んでいく姿をよく見かける。日本でも、演技力においては未知数のアイドルや駆け出しの女優がホラー映画に出演するケースが非常に多く、若く美しい女性が顔を歪め泣き叫ぶ姿を求める観客を想定した映画作りにうんざりしている女性客は多いのではないか。
「ミッドサマー」のダニーは、ベタな絶叫をせず、試練に直面すると過呼吸になり、おいおいと泣き崩れる。アリ・アスター監督の前作『へレディタリー/継承』では、母親を演じるトニ・コレットが、“スクリーミング・クイーン”を怪演し、ホラー映画で泣き叫ぶのは若い女性の役割という固定概念に一石を投じた。
若い女性を男性視点で消費するホラー映画のあり方に異議を唱える映画作りをしているアスター監督作品が、女性に支持されるのは納得だ。