戦後日本を訪れファンを熱狂させたスター
戦後間もない昭和21年に発行されたSCREENの第1号は、表紙がタイロン・パワー、裏表紙が原節子という洋画邦画のスターをあしらったわずか十数ページの冊子で、本格的な月刊誌となったのは第3号から。
それから10年ほどの間に「内容も表紙の印刷技術からいっても、アメリカはおろか世界に誇っていい高級ファン雑誌に成長した」(創刊10周年号の野口久光氏の記事より)SCREENは、外国スターの動向を日本のファンに届ける洋画ファン雑誌のスタイルを確立。現在に至るまで長く愛されてきた。
その間、日本を訪れた海外スターは数限りなく、その来日取材を行なってきた本誌にはもはや歴史的スクープとさえいえる貴重な写真が多数保管されている。テレビや週刊誌などもない時代、海外から大物スターが戦後の日本を訪れることは大きなニュースで、その情報を得るために新聞や映画館で併映されたニュース映像以上にSCREENなどの雑誌は最大の媒体といわれた。
1950年代には朝鮮戦争の慰問を兼ねて日本に立ち寄るパターンも多く、例えば『麗しのサブリナ』(1954)などのウィリアム・ホールデンらスターが慰問の途中、日本を訪れ、さっそく親日家になっている。
また50年代にハリウッドで巻き起こったのはオリエンタルブーム。日本に撮影隊がやって来ることも多く、『八月十五夜の茶屋』(1956)『サヨナラ』(1957)のマーロン・ブランド、『黒船』(1958)のジョン・ウェインなどがわざわざ日本で撮影を行なった。
また1953年には第一回フランス映画祭が行なわれ、『赤と黒』(1954)などの人気男優ジェラール・フィリップらがやってきて大騒ぎとなった。
新作映画の宣伝もたびたび行なわれるようになっていき、『裏窓』(1954)公開時にジェームズ・スチュアートが、『ハリーの災難』(1955)の時にはアルフレッド・ヒッチコック監督が来日し、映画関係者たちも熱狂した。