カバー画像:Photo by Bert Hardy/Getty Images
オードリーの生涯を秘蔵映像なども含め振り返る初の長編ドキュメンタリー
オードリー・ヘプバーン
2022年5月6日(金)公開
イギリス/2020/1時間40分/STAR CHANNEL MOVIES
監督:ヘレナ・コーン
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『ローマの休日』(1953)『ティファニーで朝食を』(1961)『マイ・フェア・レディ』(1964)など数々の名作に主演し、スクリーンの妖精、永遠のファッション・アイコン、人道活動家など、様々なイメージと足跡を残して、1993年1月20日に63歳でこの世を去ったオードリー・ヘプバーン。本作は名声の裏に隠された知られざる彼女の素顔に迫る初のドキュメンタリーで、監督は気鋭の映像作家ヘレナ・コーンが務めている。
幼いころに父親による裏切りを体験し、第二次世界大戦という環境の下で育ったオードリーは生涯をかけて過去のトラウマと向き合うことになり、私生活にも影響を及ぼした。『ローマの休日』でいきなりアカデミー賞主演女優賞を獲得し、一躍ハリウッドを代表するトップスターの座についても家庭を優先し、後年はユニセフの国際親善大使として世界の子どもたちのために、自身の名声を活かしたオードリーの心中にあったものとは?
長男ショーン・ヘプバーン・ファーラー、孫にあたるエマ・キャスリーン・ヘプバーン・ファーラーといった肉親の他、ピーター・ボグダノヴィッチ監督、リチャード・ドレイファスら彼女と組んで仕事をした映画人、晩年の彼女の活動を知るユニセフの写真家ジョン・アイザックなど多くのコメンテーターがオードリーの素顔を披露する。
また少女期にバレリーナを夢見ていたオードリーの半生を表現するために、少女時代をキーラ・ムーア、女優時代をフランチェスカ・ヘイワード、晩年をアレッサンドラ・フェリの3人のバレエダンサーが受け持ち、監督のイメージをバレエで表すシーンも織り込まれている。
PictureLux / The Hollywood Archive / Alamy Stock Photo John Isaac Andrew Wald
いま、戦争の時代を生きる世界の人々にとっても
特別なメッセージとなる彼女の生き方
本誌4月号のSCREEN映画大賞・女優部門で6位に輝き、70年近くもの間人気スターであり続けているオードリー・ヘプバーン。それは、彼女が遺した珠玉の名作が常にこの国のどこかで、何らかの方法でリピートされ、その都度新たなファンを獲得し続けている証拠でもある。ハリウッドのゴールデンエイジを彩るスターの中でも、特にこの日本で、これ程まで長く愛されるオードリーの底知れぬ魅力は、語っても語っても語り尽くせない。
今年の5月に公開される初の劇場長編ドキュメンタリー『オードリー・ヘプバーン』では、彗星のようにハリウッド・デビューしてからの俳優としての歩みは勿論、かつてはあまり語られなかった私生活の真実が、オードリー本人と縁の人々のコメントと共に紹介されている。中でも、晩年を捧げた人道主義者としての足跡は作品の核となって、まさに今、戦争の時代を生きる世界中の人々にとって特別なメッセージになることだろう。
なぜ、オードリーは命を削ってまで、傷つき、痩せ細った子供たちを抱き抱えるために、世界の紛争地帯を行脚したのか? その理由を改めて確認するためにも、もう一度、足早に駆け抜けた63年の人生を振り返ってみたい。
チェック1:子供時代のトラウマ
1929年5月4日、オードリーはベルギーのブリュッセルでオランダ貴族の由緒ある家系に属していた母親、エラと、アイルランド系イギリス人の実業家、ジョセフとの間に生まれる。エラと共にブリュッセルとロンドン、オランダのアルンヘムやハーグを頻繁に行き来した幼少期、オードリーは内向的で動物好きで読書好きの少女だった。
健全に育つために必要な乳母や家庭教師を充てがわれ、不自由なことはなかったが、唯一、留守がちなジョセフがたまに帰宅した時に、エラとの間に勃発する金銭や様々な問題にまつわる絶え間ない口論には幼い心を痛めていた。
結果、ますます引き篭もりがちになったオードリーが逃げ込んだのが、家のあちこちに置いてあったチョコレートを食べることだったとも言われる。そんな日々も父親が再び外国に出かけると平穏を取り戻すものの、帰宅するとまた口論が始まるという繰り返しが続く。
そして、1935年の5月、旅先のドイツから帰国したばかりのジョセフは、遂にエラと6歳のオードリーを残して家を出る。それ以来、エラは悲しみのあまり日々泣き暮らすようになり、幼いオードリーは呆然と見守るしかなかった。何よりも、“父親に捨てられた”という痛恨の思いが、トラウマとなってその後の彼女の人生に暗い影を落とすことになる。
チェック2:大スターとしてのオードリー
アメリカ映画の遺産を尊重する映画団体、アメリカ映画研究所(AFI)が選んだ女優部門で、オードリーはキャサリン・ヘプバーン、ベディ・デイヴィスに次ぐ3位にランクインしている。これを意外に思う映画ファンがいるかも知れない。
『ローマの休日』(1953)の王女役で衝撃的なハリウッド・デビューを飾った後も、ウィリアム・ワイラー、ビリー・ワイルダー、フレッド・ジンネマン等巨匠たちの指導の下、ハンフリー・ボガート、ゲイリー・クーパー、フレッド・アステア、ケーリー・グラントと、ハリウッドの黄金期を代表するトップスターたちと共演し、とてつもなく洗練されたラブロマンスのヒロインとして独自のステイタスを築いたオードリー。その間、アカデミー主演女優賞受賞が1回、それも含めて候補が5回という栄誉も手にしている。
勿論、実は自分の欠点を補うために選んだミニマムな装いと共に、永遠に色褪せないファッション・アイコンとして人々の記憶に刻まれたことも、スター・オードリーを語る上で重要だ。
しかし、改めてオードリーが再評価されるようになったのは、1986年の第58回アカデミー賞授賞式で、衣装デザイン賞のプレゼンターとして登壇した彼女を、会場のゲストたちがスタンディングオベーションで出迎えたあたりからではないかと思う。オードリー自身も予想外の反応に涙を拭う姿が印象的だった。
その後も、映画、ファッションと様々な分野で巻き起こったある種の“オードリーブーム”は、すでに過去のものになりつつあったスターの時代に対する人々のオマージュが、形となって現れたものだと思う。