カバー画像:Photo by Bert Hardy/Getty Images
チェック3:最優先事項は家族
1954年の9月にメル・ファーラーと結婚して以降、オードリーはスイスに自宅を構え、仕事場であるロンサゼルスやニューヨーク、パリとの間を往復する生き方を生涯貫き通した。撮影で消耗した体と神経をリセットするのに、美しい自然に囲まれたスイスは絶好の場所だったが、そこに家族が住む家があることがより重要だった。
家族との時間を優先するためならどんな努力も厭わなかったオードリーは、例えば、撮影のスケジュールをスイスで待つ長男ショーンの休みに合わせて、ショーンの学校が休みに入るタイミングで撮影を終え、親子で過ごす時間が少しでも長くなるよう調整していた。だから、ショーンは大スターの子供にありがちな孤独は感じなかったとコメントしている。
1975年、長らく映画界から遠ざかっていたオードリーのもとに、脚本家のウィリアム・ゴールドマンから『ロビンとマリアン』(1976)のシナリオが送られてきた時にも、出演の条件はショーンと次男ルカの夏休みに合わせることだった。そして、ロケ地が当時住んでいたローマから程近いスペインだったことも幸いして、オードリーにとっては『暗くなるまで待って』(1967)以来9年ぶりになるスクリーン復帰が実現する。
次男のルカは母オードリーに対して今も感謝の気持ちを忘れていない。「母が輝かしい女優としてのキャリアを休んで家族のために時間を作ってくれたことが、いかに特別なことだったか。それを今になって実感します」と。しかし、オードリーにとって家族は当たり前にあるべきもの、心の拠り所だった。決して幸福ではなかった少女時代の裏返しであり、人生の最優先事項だったのだ。
チェック4:ユニセフとの出会い
1945年、オランダのアルンヘムで終戦を迎えたオードリーは栄養失調で痩せ細っていたが、その時、ユニセフの前身であるUNRRAから配られた食料や衣料品に助けられたことを忘れていなかった。だから、1988年に前任者のダニー・ケイに代わるユニセフ親善大使のポストが舞い込んだ時、「ほんの2分で決めた」と答えている。
小さい頃から子供好きで、乳母車から他人の赤ちゃんを抱き上げそうになって母親から叱られたというオードリーは、こうして、世界の紛争地を巡って子供たちの窮状を世界に発信するという、俳優業よりも断然やり甲斐のある仕事と巡り合う。傷ついた子供たちを労わること。それは、ナチス占領下の故郷アルンヘムでレジスタンス活動に身を投じ、子供たちを治療する医師の補助役を務めた少女時代の経験と、ものの見事に符合する行動だった。原点回帰したとも言える。
1988年の大使任命以降、オードリーは4年間で合計8回、世界の紛争地域、飢餓地帯へと積極的に足を運んだ。食料物資が底をつくエチオピア、子供の疾病対策を讃えるために訪れたトルコ、街頭で多くの子供たちが暮らす南アメリカ、反政府ゲリラ組織が活動する中央アフリカ、栄養失調の子供たちが難民キャンプに身を寄せ合うスーダン、洪水や飢餓に苦しむ子供たちが待つバングラデシュ、予防接種の浸透を訴えるために訪れたベトナム、最後の訪問地となった戦争と飢餓で荒廃したソマリアだ。そして、ソマリアから帰国直後、腹痛を訴えたオードリーは末期癌を宣告され、治療の甲斐なく家族に見守られて故郷のスイスで生涯を閉じる。
スターの晩年は惨めになることが多い。でも、「この世の中で子供以上に大切なものを思い浮かばない」と言い切り、決して楽ではなかったはずのミッションに命をかけ、人としての人生の輪を美しく描き切ったオードリー・ヘプバーンは真の偉人だと思う。まして、子供たちが戦争の被害者にされている今の時代には、その生き方がより一層心に響くのだ。