今年のカンヌ国際映画祭の「ある視点部門」正式出品、みごと「カメラドール スペシャル・メンション」(Caméra d'or Special Mention)を受けた日本映画『PLAN 75』。初監督作品にして、この特別な栄誉を手にした女性、早川千絵監督には受賞前から注目していた。ハードなテーマへの取り組みや、監督にとっての映画づくりとは? どうして映画を作り続けたいのかなどなど、うかがいたいことは山のようにあった。
カバー画像 写真撮影:西山勲

短編作品でカンヌ映画祭との関わりを作っていく

── 初めてのカンヌ映画祭で、そんな素敵な出来事が起きるなんて、実力はもちろんですが、運もお強いとお見受けしました。

とは言え、2014年には、短編作品で、すでにカンヌ映画祭に『ナイアガラ』を出品されていますね。前々から、カンヌ映画祭へのこだわりがあったのでしょうか?

『ナイアガラ』は、映画学校の卒業制作で作った短編で、漠然と映画祭に出したいなと思い、応募締め切り日一覧が載っている情報サイトをチェックしていたんです。応募が有料の映画祭は避けて、締め切り日の近い映画祭に片っ端からエントリーしていきました。

そこでカンヌ映画祭が公募していることを初めて知り、「シネ・フォンダシオン(学生部門)」なるものがあることも知って、すぐにDVDを送ることにしました。

── それ、すごいですね(笑)その頃、学生さんでしたか。

私は当時、WOWWOWの映画部で仕事をしながら、夜にENBUゼミナールという映画学校に1年間通っていたんです。

── なるほど。その学校からは、『カメラを止めるな!』(2017)が輩出されましたね。そしてまた、早川監督も、このたびの大成果を遂げられたということになり、天晴です。

で、みごと、カンヌ映画祭「シネ・フォンダシオン」では、入選となったんですね?

まさか選ばれるとはつゆほども思っていないので、いつ結果が発表されるかなど気にもしておらず、すっかり忘れていたら入選を知らせるメールが届いたのでかなり驚きました(笑)。

画像: 短編作品でカンヌ映画祭との関わりを作っていく

「シネ・フォンダシオン」部門のネットワーク

── それだけでもすごいこと。『ナイアガラ』は傑作ですよ。才能を感じましたね。最後は泣きました。

そして、ぴあフィルムフェステイバルでは、グランプリを獲得されていますね。『ナイアガラ』の後には、2015年に『BIRD』という短編作品も撮られています

それは、シネフォンダシオンで『ナイアガラ』を見てくれたギリシャの映画プロデューサーの方がいらして、この部門で1位を受賞した作品の監督に、ギリシャのシフノス島を舞台にして、2週間で、好きなように映画を撮るという企画をオファーしていたんです。ところがその年に受賞した監督が辞退したので、私に作らないかと声がかかったんです。それで、その年の秋にシフノス島へ行き、ギリシャのスタッフ・キャストと、短編『BIRD』を撮りました。

── えー、ラッキーですね。次々とラッキーの連鎖が! やっぱり運が強い!! だから、あの作品は出演者や舞台がギリシャだったんですね。

それにしても、カンヌ映画祭の人脈を、そこまで活かしているところは、やはり、国際的にも傑出した才能があると思います。

それでいよいよ、長編に取り組むとなった時に、いくつか短編作品がありますが、その中でも、『PLAN 75』を選んだのはなぜでしょうか? 『ナイアガラ』でもなく、『BIRD』でもなく。どれも優れた作品ですが。

『PLAN 75』は、是枝裕和監督が総合監修した短編映画のオムニバス作品『十年Ten Years Japan』の短編作品の一つです。この作品は、当初から長編を作ることを意識していたんです。

『十年Ten Years Japan』で、短編の『PLAN 75』が誕生

── なるほど。フランスでは、長編デビューをめざす場合は、短編を作り評価してもらう。プロデユーサーに注目してもらうための第一歩として短めを作り、製作費をゲットして、めざす長編制作に進むということを、ごく当たり前にやっていますよね。

卑近な例で恐れ入りますが、弊社が配給したパトリック・ブシテー監督作品『つめたく冷えた月』(1991)も、短編を作ったら、あのリュック・ベッソン氏が注目。長編づくりをプロデュース、カンヌ映画祭のオープニング作品として上映されました。

今回も、短編の『PLAN 75』を観たプロデユーサーが、長編づくりに乗り出したんですか?

画像: 『十年Ten Years Japan』で、短編の『PLAN 75』が誕生

『十年Ten Years Japan』が、コンペティション方式で短編企画を募っていて、プロデューサーの水野詠子さんが声をかけて下さったんです。この短編でご一緒して、お互いの信頼関係が築けたので長編も一緒にやろうということになりました。

小学校四年生の時に観た『泥の河』が大きく影響

── それはまた、素晴らしいチャンスをもらえましたね。いやー、早川監督の「引き寄せ力」は半端ではないですね。

これまでの歩みをうかがったら、どこかフランス流というか、短編作品を作る意味というのを、早川監督は体現しながら一歩一歩、地道に確実に進んでいらしたと感じます。

そもそも、映画の作り手になろうというきっかけは、いつ頃芽生えたのでしょう?

小学校四年生だったと思いますが、小栗康平監督の『泥の河』(1981)を子供会の上映会で見せてもらって。

── わー、入り口、少女にとっては結構ハード。子供に見せたんですね、この作品を。

モノクロ作品で、最初はつまらなそうだなと思っていたら、観ているうちに面白くなってきて、この映画を作った人は、自分の中にある言語化できない感情を理解してくれている、と思ったんです。そこから映画というもの、そして映画の作り手にも興味を持つようになりました。それから映画を沢山観るようになって。

── そして、その少女は、それからどのような作品を観ていくことになるのでしょう。

中学生の頃、ノートに書き留めていったのは、相米慎二監督で、『台風クラブ』(1985)『お引越し』(1993)とか。

── なるほど。その他に海外で注目した監督はいらっしゃる?

そうですね、海外だったら、ポーランドのクシシュトフ・キェシロフスキ監督ですね。『ふたりのベロニカ』(1991)とか。

── おお、わかります。その時代、良い作品沢山ありましたね。

ミニシアター全盛時代ですね。

── 映画はNYで学ばれたんでしたよね?

美術大学の映画学科に入ったのですが、英語力に自信がなくすぐに写真に専攻を変えたんです。写真にのめりこみましたが、映画を作りたいという気持ちが強かったので、自分でビデオカメラを買って一人で撮り始めました。

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