2022年東京国際映画祭の「アジアの未来」に踊り出た、マヒトゥ・ザ・ピーポー。オルタナティブロックのミュージシャンで、バンド「GEZAN」のヴォーカル&ギタリスト。そのうえ作家やエッセイストでもある。そんな彼が初監督作品を手がけた。新人俳優、富田健太郎とベテランの森山未來を起用して完成させた映画が『i ai(アイアイ)』である。映画祭開催中に、筆者久々の対面による、実に刺激的なインタビューが叶った。

映画はプリミティブな力を持つ、残されたメディア

何か今は、「ここ」と、「あそこ」の違いだったり、「私」と「あなた」が違うってことを知らしめる、そういうメディアが発達し過ぎている気がしているんです。

(それらに対して)映画っていう、プリミティブな古いメディアとの関わりをもつことは、そういう大きな時間、時代の流れと抵抗できる。だからといって、そこと向き合うために速度の速いCMの様な映像を連続させる映画を作るってことではなくて、映画本来が持っているプリミティブで遅い力で、自分は対抗したいです。

それっていうのがやっぱり、この時代に映画作りたくなった理由なんです。

── さすがです。おっしゃるとおりです。

映画はプリミティブに生き続けていますね。プリミティブってものは、気づけばもう、ほとんどどこにも今見受けられないくらい。その中で、映画は本当に変化が遅いです。(作って、配給のために宣伝して上映されるやり方もほとんど変わっていないですが、)だからといって新しくする意味もないかと思います。

それにしても、そういうご意見をうかがうと、ピーポー監督が何歳なのかは謎ですが(笑)、そういった考え方の方々が、次世代にももっと増えてくれたらいいなと、私などは思うのですが。今回の映画やご著書にも見え隠れする「死生観」みたいなものは、失礼ながらいい意味での、悟りを開いた「お年寄り」みたいです。おっしゃることが一つ一つ、そのとおりだと私には思えるし、私の世代とも気が合う方だなーと思えて、その感覚が半端ではない(笑)。

よく言われるんですよ(笑)。

── 海外に行くとそういう、年齢や世代間のギャップって、あまり感じないで話したりできるんですが、日本の若い世代にはピーポー監督のような考え方の方はどんどん少なくなっているような。寂しい気持ちになります。

そうなんだ。

── そうおっしゃるピーポー監督が手がけた今回の作品は、私のような映画を沢山観てきた世代からすると、どこか懐かしささえ感じさせてくれて、過去の多くの作品を彷彿とさせてくれるものなんです。

撮り方や物の捉え方とか。どこもかしこもしっくりきます。カット、カットが力強くて、アングルも自在、それが映画だってずっと思って映画と関わってきた人間からすると、久々に「映画らしい映画」だって思えて嬉しいです。

画像: 映画はプリミティブな力を持つ、残されたメディア

痒いところに手が届く映画づくりは、芸術とは違う

それって、元々は本当に普通のことだったと思うんですけれど、さっき言った生産性というか、何かに引っかかりを作らなきゃっていうことが優先され、退屈な何でもない時間を許すことができない映画っていうのが、増えているわけでしょう。

それは、もしかしたら映画の業界によるお金がないことだったりとか、いろいろなことが関わっているとは思えるんですよ。Netflixなどの配信のメディアも出てきているから、映画は商業的な意味での価値がずっと絶え間なくある映画を作らなきゃいけないっていうような。

だけど、普通に生きていたら、例えば、今こうやって自分が喋っているインタビューがあって、この後に自分の上映があって、今日のトピックってのはそういうことなんだけれど、それ以外の何でもない煙草を吸いに行く時間だったり、その間の廊下をずっと歩いてるときの時間だったりとか、そういう風な何か中心から省かれて、余分だとされ無かったことにされてる時間というものが凄くたくさんあって……。

そういうものの存在自体こそが、やっぱり「生きてる」ってことだと思えます。そのことを無いものに扱ってしまうっていうのが、今の時代だと思うんです。

── そうです、そうです。

で、映画とかの表現は、そこをちゃんとすくい取らなきゃいけないと思います。

なので、さっきの「見えなくなったもの」と一緒の考え方なんですけれど、意味のない時間、意味がないとされてる時間、そういうことに光を当てられなくなったらもうその時点で、映画だろうが音楽だろうが、小説だろうがどんな媒体であっても、それはもう芸術ではないですよね。

── 素晴らしい、おっしゃるとおりです。

えーと、それで痒いところ掻いてくれる、何でしたっけ?「猫の手」? 何て言うんだっけ?

── あ、「孫の手」ですか(笑)。

そう、そう、「孫の手」だ!(笑)。「孫の手」みたいな映画とか多過ぎですよね。

── なるほど。それにしても、「孫の手」って今もあるんですかね?

「孫の手」は、もうないか(笑)

── で、「孫の手」みたいな映画!が、たくさんある……(笑)。

今、泣きたいときに泣ける映画とか、恋愛でドキドキしたいときに観る映画とか、まるで処方箋のような映画って溢れてると思うんですよ。そういう風な映画が間違ってるとは思わないし、そういう役割が映画にあってもいいと思うんです。

でも、自分にとってそれは表現したいとか、やりたいということではないので、関係のない話ですね。そもそも、そういうのは映画と呼ぶべきか疑問です。喜ぶ人たちはいるんだろうけれど、映画に関わらず、今蔓延している処方箋になるような表現は、少なくとも自分がやることではないなって思います。

画像: 痒いところに手が届く映画づくりは、芸術とは違う

── わかりました。素晴らしい。で、今回の作品は、いったいどのくらいの時間をかけて作ったものなのか。半端のない作りとか、手抜きのない作りですから膨大な時間を費やしたのかなと。

「映画らしい映画」づくりを意識して

時間軸で言うと、どのくらいですかね……。

(ここで、プロデユーサーの平体雄二さんの発言が入り、「例えば、仮に一年だとしても、もの凄い集中力だったから、通常の人間の4年分ぐらいじゃないですか。4年分くらい生きた感じしませんか? 僕はそう思います」)

適当! はっはっは。4年分だって!

── とにかく、もの凄いエネルギーだったということですね。撮影期間は実際どのくらいでした?

3週間ぐらいですね。

── そうとは思えないですね。もの凄い年月をかけて、細かく撮って編集にももの凄い時間を使ったという印象ですが。

そういう意味では、先ほどうかがった、映画らしい映画っていうことを結構意識しました。

映像的な「ギミック」というか、そういった濃い調味料で、味を濃くしていくみたいな、そういう手法が加速しているような気がするんです。その点こちらは、ただただ、ちゃんとまっすぐ撮ろう、ちゃんと芝居があって、自分たちが描きたい(兵庫の)明石の海の前で、あるものをまっすぐ撮ればいいんだよね、と。

今回初めて撮影をしていただいた写真家の佐内正史さんともずっと、そのことを話し合いました。

── 佐内さんって、(『ひかりぼっち』でピーポー監督を撮りおろししている)写真家ですよね。

そうですね。初めてですよ、映画は。

── うーん、そうとは思えないですね。上手いですよね。非常に撮影が映画的で、感心しました。

初監督作品として、そういう方を撮影に起用することや、ご自身も監督、脚本を手がけ、ご自身のバンド「GEZAN」が音楽を担当。先ほどお伝えしたように、唯一無二とも思える作品が誕生しました。専門的な場で学んで、「方程式」を頼りにつくるというような映画作りではなく、ご自身が納得するやり方で完成させていらっしゃいます。

こういう点で影響を受けた映画監督はいらっしゃるのでしょうか? 初監督作品として『破壊の日』(2020)をつくった豊田利晃監督とか? この作品に即身仏になるという青年役で出演されていますよね?

関わる者によって「変容」していくところが映画の面白さ

そうですね。豊田利晃監督がメガホンをとり、企画、脚本、プロデューサーも兼任した『破壊の日』という映画があって、自分が演じることになった。その現場を見ることになったことは、確かに自分が映画を撮りたいと思うきっかけにはなっていますね。

一人で曲を作って発表するっていうことは、一人の世界で完結することです。それに対して、映画の場合は、例えば自分が書いた脚本を演じる人が、どういう風に解釈するかっていうこと一つとっても、その役者さんの今まで生きてきた時間とか、その人の見て来た景色みたいなものなんかが、掛け合わせになるわけですよ。

だから、まず、その時点で(脚本なども監督が書いたものとは)全然違うものになるし、その日の天候だって影響するだろうし。なんでも全部そうなんですけれど、「純粋なフィクション」てものはないんだろうなと思っています。

── なるほど。

やっぱり、いろんな関わる人が増えていけば増えていくほど、どんなにそれらをコントロールしようとしても、その人、その人の癖、生き方みたいなものが関わってくるものでしょう。というか、むしろ映画を撮ることって、そういう関わってくることがないと意味はないと思うんです、映画つくるっていうのはね。

── なるほど、なるほど。

そう思ったのも、豊田監督が描いて見せてくれた現場の体験からですが、その解釈っていうのを、ある程度自分にも預けられていましたから、自分が提示したものがどうなのかっていうこととか、みんなでディスカッションしながら作っていくようなところが面白かったんですよね。

で、そういうところにも、やっぱり自分のエゴも強いので、自分って者からどうやって逃げようかっていうのは、どっかで大きいテーマとしてあります。今回、(自分の場合も)いろんな人と関わる中で自分の書いてきた言葉だったり、イメージが違うものに変容していく様を楽しみたいっていう想いがありました。

── 興味深いですね。

頭の中にイメージしていることを再現してもらうために、いろいろなスタッフだったり役者とかが、道具として補完していくっていう完璧主義な監督もいると思うんですが、自分はやっぱり、投げた石の波紋がどういうふうに広がるかってこととかを楽しむ、それを記録する。そう、まっすぐ記録するっていうこととかを気にして作っていましたね。それが自分としては映画的なものだなと思っています。

── よくわかりました。

私は、拙著『職業としてのシネマ』(集英社新書)に勝手ながら、映画監督は王様であるという章を立て、映画監督は、自分の作品のためには「王様」であって良いのではという仮説を投げております。ピーポー監督もこれからは演じるより、演じさせる方が楽しいと思いましたか? 映画監督は一度味わったら、やめられないと言う長老のクロード・ルルーシュ監督さんもいらっしゃいますからね。

もう役者やるのは嫌ですね(笑)。

── そうですか、やはり。

というよりね、(演じた時に)緑の服とか着なくちゃいけなくて、赤い服じゃダメなんですか?とか聞いちゃいましたから(笑)。

── ハハハ、可笑しい! えー、どんな役でも赤い服でないとダメなんですか?(笑)今回の映画でも、何度も赤い服の妖精さんみたいなのが登場しますが、ピーポー監督は常に赤い服がキャラクターなんですね。いつも同じ服ですか?

同じデザイナーさんに頼んでいますけれど、今日のなんかは新作なんですよ(笑)。

── 赤にこだわりあるんですね。凄いです。

ところで、監督は『ひかりぼっち』でも幾度となく、「幸せになりたい」ということを書かれていました。今回の映画にもそういうメッセージが見え隠れしているように感じました。ミュージシャンとしても活動され、本も出され、そのうえ今回映画づくりも成し遂げられ。映画が出来上がるまでには、多くの方々が監督のために動いてくれるわけで、しっかりとしたプロデューサーさんが懸命に働き、出演者もスタッフの方々も監督の想いを受け止めてくれて、クラウドファンディングの協力者も沢山いる。そして出来上がった映画を大勢が観てくれる。もう、幸せになりましたよね?(笑)

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