力強い作品多数の「アジアの未来」に選出された『i ai』
昨年2022年の10月24日から11月2日まで開催された、第35回東京国際映画祭は、前年までのコロナ禍を意識しての映画祭から一転、多くの映画人が海外から来日し、多くの力強い作品に恵まれて活気づいた。
毎年、この映画祭は私にとっては、「シネマという生き方」をめざす新たな才能との出会いに胸躍らせて臨む場でもある。対面インタビューの「リアル」な出会いに、期待は高まるばかりだった。
『i ai』は、「アジアの未来」部門に選ばれるにふさわしい、未来を感じさせる才能が終結。珠玉、かつアナーキーな、でも、心優しく愛おしい作品。
マヒトゥ・ザ・ピーポーは、2009年に活動を始めたオルタナティブロックバンド「GEZAN」の中心アーティスト。作詞、作曲をするヴォーカリストでギタリストとして知られている。常に赤いオリジナルないでたちに身を包み、メタファー的な存在感が特徴だ。
音楽家でシンガー・ソングライターの青葉市子との「NUUAMM(ぬうあむ)」でも活動し、FUJI ROCK FESTIVAL、SXSWなどの大型フェスティバルに出演。フリー・フェスティバル「全感覚祭」や反戦デモなども主催している。
歌詞に込められた言葉は、小説『銀河で一番静かな革命』(幻冬舎)や、エッセイ集『ひかりぼっち』(イースト・プレス)にも繋がる、心を捉えて離さない。
映画への初の取り組みの『i ai』にも多くの言葉が映像となって散りばめられ、観る者を惹き込む。映画に取り組むことは、彼の音楽活動や小説やエッセイの創作活動の延長線上で必然的なものに思えた。それらは、すべて彼の生きている証しそのもののようだ。そして、映画への取り組みは遅いくらいにも思えた。
『i ai』から発信される「熱さ」「痛さ」が語るもの
映画『i ai』は、驚くべき躍動感があり、反面「動的」なものと「静的」なものが混在して、「映画的なもの」が、兵庫の明石の日常の風景の中に渦巻く。
主人公の青年、富田健太郎演じるコウは、カリスマバンドマン森山未來演じる「ヒー兄」と呼ばれる男に出会い魅了されていく。ヒー兄は「動的」なものを標榜するかのような存在。未来への期待もなく「静的」に生きていたコウに、バンドの魅力を叩きこんで行く。その生き方は常軌を逸しているかのように激しく暴力的でもあった。
やくざを恐れない一方で、メジャーデビューを前にして、愛する恋人もいて好調な日々にあっても、どこか孤独で悲しみも滲ませるようなヒー兄。突然の彼の死に見舞われ、コウはバンドも諦め自分を見失いそうにもなるのだが、そこにヒー兄の幻影が現れる……。
というように、主人公コウに導かれて『i ai』は展開していく。彼がピーポー監督の分身なのか、ヒー兄の分身なのか、全編が監督のモノローグにも思える。バンドマンという生き方を描きながらも、「生と死」についての強いメッセージは、「熱く」て「痛い」。
『i ai』という映画が影響を受けた映画とは
── 東京国際映画祭2022の「未来のアジア」部門での上映、素晴らしかったです。『i ai』を拝見していたら、後半になるとウルウルしてきまして、主人公コウが、観客に訴えるかのようなシーンでは涙が止まらない。エンドロールを待たずに、彼に応えるように思わず拍手しちゃいました。
嬉しいですねえ。
── 私は1987年からフランス映画を中心に、映画の配給と製作をしてきまして、女優や男優、劇画家や音楽家だったりという方々が初監督された作品を、結果的には多く手がけてきました。
今回のTIFFでは、ピーポー監督のようなカリスマ的ミュージシャンで、それのみならず小説やエッセイ集も出されているアーティストの方が作る映画があることを見つけて、一番に惹かれました。作品観たい、お話しうかがいたいと。
今年の「アジアの未来」部門は例年にも増して力強い作品が集まり、激戦区のように思われました。他の作品とかはご覧になっていたんですか?
全然、観ていないんですよ。
── そうなんですね。私もすべての作品を観てはいないですが、とにかく『i ai』は、唯一無二の映画だなと感じました。初期のゴダールみたいで。赤い風船が出てくると、あ、フェリーニ的だ、アピチャッポンも入っているとか、多くの監督のことが想い起こされ、目が離せなくなっていきました。これはたくさん映画観てきた人が作っているな、なんて思いましたが、どんな映画を観ていらしたのでしょうか?
そうですね。映画好きになっていくはじまりはレオス・カラックス監督の『ポンヌフの恋人』とか。
── あ、わかります。『i ai』と「痛さが」同じのような気が……。あの映画が作られたのは1991年。監督はいつ頃に観たんですか?
大阪に住んでいた頃、枚方(ひらかた)という駅の近くにあったビデオ店が潰れて。閉店セールの時にビデオを大量に買って観ていた中にあったと思います。
他にも、ラリー・クラーク監督の『KIDS』(1995)とか、ローズ・トローシュ監督の『GO fish』(1994)とかが100円位で売られてて、「天井桟敷」の寺山修司の映画作品もあったり、ホドロフスキー監督の作品もあったりとか、もう凄かったですね(笑)。
── 貪るように観た感じですね。その頃だとVHSで?
VHSでしたね。好きに観れたのは単純に暇だったからなんですよね(笑)。その頃の自分は基本的に睡眠時間が短くて、毎日2、3時間ぐらいで。毎日。そうすると、友人なんかが寝てる間暇なんで映画観れますよね。2本とか3本とか。
── それ何歳くらいの時ですか?
暇なのは、生まれてからずっとかな(笑)。
── バンド始める前ですか?
バンド始める前からです。その頃は夜遊びで街に出ていた時期でもあったから、ずっと映画だけ観ていたわけでもないんですが。
見えないもの、無いものに輪郭を与えること
── それにしても、『ひかりぼっち』を拝読してみると、そのまなざしが実に映画的でした。そこでも、ああ、映画を作る人なんだなって痛感させられました。何でも見えてしまうんですね。凄い観察眼の持ち主というか。
それも、小さなことにも目を向けていて。今回の映画にも出てきてましたが、道端の草花のことや、見かけたおじいさんのこととか、ある時は鳥の気持ちになったり。そんな身近なことに細かに目を行き渡らせ、その感性が「絵」になっているんです。そして、言葉の表現も映画的で秀逸でした。
今、本当に時代が、例えばSNSだったりとかもそうですけれど、数字に置き換えられるかどうかとか、見えてるもの、数えられるものとかっていうのは有るものとされる。置き換えられないものを、生産性がないから無いものとして扱っていく、ということが凄く多いと思うんです。
── おっしゃるとおり、そうですね。
見えないからといって、それらが無いわけじゃなくて確かに存在しているはずなんで。そのことに対して輪郭を与えられるかどうかっていうのは、なんかそれぞれの「創造力/想像力」 に託されていると思うんです。
それは映画のことだけじゃなくて、輪郭を与えること、そういう視点を肯定するみたいなことを(音楽でも小説でもエッセイでも)表現出来うる全部に共通しての、自分がやりたいこととして精通してるのかなと思っていて。
── なるほど。
その「見えなくなる」ってことに関して言うなら、最終的には自分自身もどこかの火葬場で燃やされて、体も無くなって、最後は「見えない」存在になるわけなんですが、膨大な情報はWeb上に残ったりもする。
例えば作った曲や、『i ai』という今回の映画とか、『ひかりぼっち』もそうです。残って、消えることすらできないんですよね。
でも、身体とかは無くなって、なんかそのことを無いものとして扱っていく社会とか時代って、言ったらそれは、最後自分にも向いてくるっていうか、自分もいつかこの世界と「さよなら」しなきゃいけないわけなんですが、その見えなくなったもの、いや、見えなくなるものとどうやって付き合っていくかっていうのは、今日的なテーマだと思っているんです。
── 「死生観」というか……。
「お別れ」っていうのも、体が無くなるというだけではなく、分断的な意味でも、この人がこんなこと言い出したから、もう友達じゃないとか、政治的なレイヤーでもそうだし、いろんな理由でどんどん線引きされていく時代です。
インターネット以前だったら、もっと曖昧さが許されてた時代もきっとあったと思うんですけれどね。「お互い様」ということが有効だった。
── そうですよね。「見えないもの」とうかがうと、余談になりますが、TIFFでは『i ai』との出会いも嬉しいんですが、以前から大好きで、拙連載にもご登場されたオリビエ・アサイヤス監督が、1996年につくった『イルマ・ヴェップ』のリメイク版を観ることが出来たことなんです。
今年のカンヌ国際映画祭で上映していて、なんとTIFFでも全8話観ることが出来て幸せな気持ちにさせられました。他の作品観れなくなるくらい時間使っても観たかった作品です。その映画がまさに、今の時代に対して本来の映画づくりとは、というアサイヤス監督の想いを全編で描いているんですよ。
凄いね、それって。
── その作品の中で、「見えないもの」を描くと、映画は良い映画になるっていう台詞が登場する場面がありました。ピーポー監督が今回「見えないもの」にこだわっているから、映画づくりということで符合しているなと。
お話をうかがっていると、そのことを思い出してワクワクしてきました。そして、アサイヤス監督の言うとおり、『i ai』は良い映画になっていますよね、凄い! 映画的言語が共通していることを、TIFFで目の当りに出来るなんて。