森山未來が演じた卓の苦笑いが作品のキーに
──長らく疎遠だった父と息子の対峙に圧倒されました。まずは着想のきっかけからお聞かせください。
映画の着想のきっかけは2つあります。まずは2020年春に起こったパンデミック。新型コロナウイルスの蔓延によって社会が変容しました。そして、ちょうど同じ時期に僕の父親が認知症を発症しました。この2つが契機となっています。
前作の『コンプリシティ/優しい共犯』は2020年1月に公開され、その時点で次の作品の構想があり、すでに脚本も書きあげていました。しかし、パンデミックによって、すべてがストップ。街に人がいなくなり、マスクによって口元の表情が消え、夜はネオンが消え、打ち合わせは対面でなくなった。この変容してしまった社会や自分自身に共鳴する物語を作りたい。そう思い、企画をゼロから立ち上げ直しました。その中でいちばん大きなキーワードとして「不在」という言葉が立ち上がってきました。
──2つの時系列がある作品です。何をどの段階でどこまでどう見せるか。脚本開発は大変だったのではありませんか。
それほど苦労することなく書けました。もちろん、精緻に積み上げていきますので、それなりの時間が掛かりましたが、書いていて詰まったりすることはありませんでした。
例えば「僕はそこで銃を見つけた」というのと、「僕が銃を見つけたのはそこだった」「僕がそこで見つけたのは銃だった」と情報の順番が変わるだけで、意味合いや受け取る印象が大きく変わります。どの順番で何を出していくのか。これはどんな作品を撮るにしても、とても重要です。
また、仮に映画で誰かの一生を描いたとしても、すべての瞬間を描くわけにはいきません。その時点で情報の取捨選択をやっています。今回はそこにちょっと時系列の組み換えが入っているだけです。
コンセプトとしては、現在の時間軸と、それより少し前の近過去の時間軸があり、近過去が現在の時間軸を追い掛けていく構造です。その近過去の時間軸は最終的に作品の冒頭に辿り着く。そういう2本の並行した時間軸はありますが、それぞれの中で順番をひっくり返すことはしていません。何年前等のテロップを入れずにシームレスに二つの時間軸のカットを接続させていますが、本作に関しては、藤竜也さんが演じる陽二が介護施設にいるのか、いないのかでどちらの時間軸なのかを判断できるので、観客のみなさんにも直感的に理解していただきやすいのではないかと思います。
──認知症が物語のベースにありますが、排泄障害など、認知症を描いた一般的な作品によく出てくる描写がありません。脚本に書く上で、そういったことを描かないと決めていらしたのでしょうか。
重要なご指摘です。ご覧になる方によっては「現実はもっと厳しい」とおっしゃる方もいると思います。
認知症である陽二を描くにあたって、特に重視したのは、認知症の患者さんとともに過ごされている施設の方々がご覧になったときに、「嘘くさい」と思ってほしくないということでした。今回、ご協力いただいた施設の方々が誇りに思ってくださる映画にしたいと思いました。
ただ、いちばん辛いところ、いちばん厳しいところを描いたからといって、それが「本物」になるわけではありません。また逆も然りで、いちばん辛いところを描かないからといって、それが「偽物」というわけでもないのです。
僕にとって映画は120分のエンタテインメント。来ていただいた方がそれぞれに何らかの繋がりを見つけて、楽しんでほしい。しかも、この作品は認知症そのものを映し出すドキュメンタリーではなく、主題は別のところにあります。何を描いて、何を描かないのか。意識して取捨選択しました。
──卓は陽二が入所した施設の人と面談をしたときに、いろいろ聞かれます。何をどう答えたらいいのか、わからない卓の姿はけっして他人事ではなく、自分自身における親という存在の「大いなる不在」を感じました。
あのシーンは実体験にかなりオマージュしたものでした。矢継ぎ早にいただく質問は施設にとって必要な情報ですが、まったく答えられない自分がいる。しかも肝心の本人は認知症になっているので、訊くことができない。
卓は幼い頃に父親と別れ、ずっと疎遠でしたが、親のことをどれだけ知っているのかということは疎遠であろうがなかろうが、誰しもあることだと思います。
特定の状況、特定の人しか共感できないものにはしたくなかったので、そういっていただくと、とてもうれしいです。
──その主人公の卓を森山未來さんが演じています。監督にとって初めてかと思いますが、キャスティングの理由を教えてください。
ほとんどひらめきのように、ぱっと「森山未來と藤竜也を同じフレームに入れたい」と思いました。この2人が対峙している様子はすごいと思いませんか。ひとりの映画ファンとしての単純な欲望を純粋に叶えました。
それはとても大きな意味がありました。今回は藤竜也と森山未來が父と息子を演じるというイメージに導かれるように物語を作っていきました。
森山さんは30代後半の俳優の方の中では稀有な存在。映画なら『モテキ』(2011)、テレビドラマなら「パリピ孔明」(2023)といったメジャーな作品だけでなく、国内外のアートハウス作家作品にも多く出演されています。しかも、大衆演劇、コンテンポラリーダンス・舞踏などの舞台芸術でも活躍されている。こういった役者さんは森山さん以外に知りません。そういうバックグラウンドを持っている役者だからこそ、藤竜也とよい対峙ができるのではないかという思いがありました。
──実際に森山さんと藤竜也さんを同じフレームに入れてみて、いかがでしたか。
お二人とも演技をされているので、決まったセリフを言い、段取りに沿った動作をしますが、カメラが映しているのは向き合って座っている藤竜也と森山未來という実在の生身の人間です。そこでどちらかが人間的というか動物的に負けていたら、いい画は撮れない。撮影の序盤でお二人が対峙しているのを一目見て、やっぱり正解だったと思いました。そこに拮抗している親子の姿が見えたのです。気難しい親父にして、この息子。疎遠だったとはいえ、やっぱり蛙の子は蛙、似ているところがある。感動しました。
──特にここは想定以上に素晴らしかったというシーンはありましたか。
施設での面会が3回ありましたが、あのシーンはどれも素晴らしかったと思います。
その3回の面談はほんの劇中では数日の話ですから、その間に認知症がすごく進行したというわけではありません。ただ、認知症は状況において出方が変わります。この瞬間はこうだけれど、この瞬間はこうといった感じで、陽二の認知症の発露の仕方が3回それぞれで違います。
一方、卓は父親のことを調べて、少しずついろんなことがわかってきます。そのうえでランダムに変わるように見える陽二と向き合っていく。ここがいちばん面白いところです。
──3回目の面談で卓が見せた表情が印象に残りました。
陽二が卓に対して暴力を振るったことの許しを請い、卓がそれを受け入れる。それまで暴力の話は一切出てきていません。普通なら「伏線なしにこのタイミングでこんな過去のことを出してくるな」と言うところです。しかし、陽二の状況を考えれば、それが本当の話なのかどうかわからない。仮に本当だったとしても、受けた卓がそれを覚えていて、トラウマになっていたというわけではないと僕は思っています。
むしろ、卓があの表情で受け止めたというのが、この作品のキーです。あのシーンはいわゆるReconciliation、親子の感動的な和解というよりも、父親と息子という一種の保護と被保護の対象であったはずの2人の関係が反転した瞬間だと捉えています。だからこそ、卓は父親の望みを叶えて「ゆるすよ」と苦しそうな笑みで答えたのだと思います。
親子であれば、保護と被保護の反転をどこかで経るもの。あの二人にとってはあのタイミングだったのではないかと思います。あの瞬間を経て、卓という人間は本当の意味で大人になったのです。それが自分のベルトを外して、陽二につけてあげるシーンに繋がっていくわけです。
──陽二が久しぶりに会った卓にきつい言葉を掛けるシーンがあったので、暴力というのは言葉の暴力だと思っていました。
それは何とも言えないですね。ただ、認知症の方が口にする言葉は事実でないこともたくさんありますが、その人の人生の何かがフックになって出てくることが多い。ですから、あの暴力という言葉はまったく根も葉もないことではなく、陽二の中で何か引っかかっている罪悪感があり、そういったものが暴力という言葉で出たのかもしれませんね。
──フレームの話に戻りますが、フレームの中に捉えるべき人が入っていない段階からカメラを据え、後から人物が入ってくるシーンがいくつかありました。
前作はドキュメンタリー的にカメラは常に主人公を追い掛けていきましたが、今回はカメラが誰かを追い掛けるのではなく、場所ありきで人が入ってくる。神の視座が必要だと思いました。本来なら、森山未來をアップにするとか、森山未來が前に出たら、カメラも一緒に移動させるところもそれをやらずに、この作品の世界を作っていきました。それは非常に意識的にやっていました。
──もう1つ、フレームの話ですが、鏡を使って、向き合っている人を同時に同じフレームの中に映し出しているシーンも何回かありました。
映画というのは事物に光が当たって、その反射した光をフィルムに焼き付ける行為です。その反射が2回、3回あると面白いことができる。鏡をつかった表現は映画ではよく見られます。
玄関に置いてある姿見を使って、実像と鏡像を利用して向き合っている人を同時に映し出すシーンがいくつかありますが、ほとんどの人が鏡には向き合っていません。ただ、1人だけがあるシーンで一度だけ鏡を鏡として、姿見として使っています。もう一度、ご覧いただくとわかると思いますが、そこに僕は大きな意味を持たせました。見逃した場合は、ぜひ二度目のチケットを買って劇場に足を運んでもらい確認してもらえると嬉しいです。
<PROFILE>
近浦啓
映画監督。2018年、『コンプリシティ/優しい共犯』で長編映画監督としてデビュー。第43回トロント国際映画祭でのワールドプレミアを皮切りに、第23回釜山国際映画祭、第69回ベルリン国際映画祭など、多くの国際映画祭に選出され、日本では第19回東京フィルメックスで観客賞を受賞。2020年に全国劇場公開された。2023年、長編第2作『大いなる不在(英題:GREAT ABSENCE)』が完成し、第48回トロント国際映画祭、第71回サン・セバスティアン国際映画祭、共にコンペティション部門にノミネートされる。サン・セバスティアン国際映画祭では、最優秀俳優賞(藤竜也)、アテネオ・ギプスコアノ賞のダブル受賞を果たす。翌年2024年、USプレミア上映の第67回サンフランシスコ国際映画祭では、長編実写映画コンペティションの最高賞であるグローバル・ビジョンアワードを受賞。
『大いなる不在』2024年7月12日(金)公開
<STORY>
小さいころに自分と母を捨てた父が警察に捕まった。連絡を受けた卓(たかし)が、妻の夕希と共に久々に九州の父の元を訪ねると、父は認知症で別人のようであり、父が再婚した義母は行方不明になっていた。卓は、父と義母の生活を調べ始めるが――。
父と義母の間に何があったのか?すべての謎が紐解かれた時、大海のような人生の深みに心が揺さぶられる、サスペンス・ヒューマンドラマ。
<STAFF&CAST>
監督・脚本・編集:近浦啓
共同脚本:熊野桂太
プロデューサー:近浦啓 堀池みほ
出演:森山未來、真木よう子、原日出子、三浦誠己、神野三鈴、利重剛、塚原大助、市原佐都子、藤竜也
配給:ギャガ
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