アメリカドラマ界最高の栄誉とされる「エミー賞」で最多受賞記録を打ち立てた「SHOGUN 将軍」。その大成功の裏には、主演・プロデューサーとして同作を導き、かつてないリアルな日本描写を実現した真田広之の存在がある。日本でのキャリアから遡り、「SHOGUN 将軍」に至るまで。真田の軌跡を今一度振り返ってみよう。(文・相馬学/デジタル編集・スクリーン編集部)
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ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平の大活躍が連日のように報道されていた2024年9月、LAから届いた、もうひとりの日本人の偉業のニュースに巷は沸いた。米テレビ界最大の栄誉であるエミー賞で、真田広之が日本人として初めて主演男優賞を受賞。受賞対象作「SHOGUN 将軍」はドラマ部門の作品賞をはじめ、エミー賞史上最多の18部門制覇を成し遂げたが、これはプロデューサーを兼任していた彼にとっても大きな栄冠と言えるだろう。俳優として、そしてクリエイターとして、誰も到達しえない地平に立った真田広之。改めて、そんな彼のこれまでのキャリアを振り返ってみよう

数多くのアクション映画で日本の観客たちを虜に

1960年10月12日生まれの真田広之は、子どもの頃から芸能界に身を置き、6歳のときに『浪曲子守唄』で映画デビュー。このときの主演の千葉真一との出会いは、運命的と言ってもよいだろう。当時の千葉はアクションの分野で活躍する映画スターで、1970年にアクション俳優やスタントマンを養成する組織ジャパン・アクション・クラブ(=JAC)を設立。真田は13歳のときにそこに入団する。1978年に深作欣二監督の『柳生一族の陰謀』に出演する頃には、アクション俳優としての素養が身に付き始めていた。千葉がアクション監督を務めた『忍者武芸帖 百地三太夫』(1980)で初主演を務めた真田は、時代劇というジャンルに若々しい新風を吹き込む。以後、アクションスターとして多くの作品に出演。アイドル的な人気を博したことから、歌手としても活動するようになった。また、千葉はつねに世界で勝負することを考えており、その姿勢は真田にも大きな影響をあたえた。『龍の忍者』(1982)は彼が初めて海を越え、香港で初主演に挑んだ野心作だ。

演技派としても活躍99年には渡英し「リア王」に出演

一方でアクションを離れ、俳優としての経験を積むことも忘れなかった。宮本輝原作の『麻雀放浪記』(1984)、『犬死にせしもの』(1986)のような骨太なドラマや、『怪盗ルビイ』(1988)などの軽快なエンタメ作品でも主演を務め、着実にキャリアを重ねていく。JACを離れてからは演技力を認められるようになり、タイで撮影された『僕らはみんな生きている』(1993)ではブルーリボン賞の主演男優賞を受賞。他にも『EAST MEETS WEST』(1995)や、『緊急呼出し エマージェンシー・コール』(1995)などの海外ロケ作品に主演。アメリカでも人気の高いホラー『リング』(1998)でも存在感を示した。1999年には渡英し、英国の由緒ある劇団ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの「リア王」に日本人俳優として初めて出演。その後、名匠、山田洋次による『たそがれ清兵衛』(2002)では日本アカデミー賞の主演男優賞受賞を果たす。同作は米アカデミー賞の外国語映画賞にもノミネートされ、アメリカでも注目された。ハリウッド進出の機は熟していた。

初のハリウッド作品『ラスト サムライ』

2003年、真田はトム・クルーズ主演の『ラスト サムライ』でハリウッド映画に初出演。明治維新直後の日本を舞台に、政府に抵抗する武士たちの一群に身を置いた米国人の運命を描く本作で、サムライのひとりを演じた彼はトムを相手に、鮮やかな剣さばきを見せる。それは若い頃から殺陣を学んでいた成果が、世界中に披露された瞬間でもあった。一方、舞台裏では英語ができることから、日本の描写に関してアドバイザーとして撮影に立ち合っていたという。

画像: 『ラスト サムライ』(2003)/氏尾役

『ラスト サムライ』(2003)/氏尾役

『ラスト サムライ』

ブルーレイ 2,619円(税込)
DVD 3,278 円(税込)
発売元:ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメント
販売元:NBC ユニバーサル・エンターテイメント

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