作品へのこだわりとチャレンジが数々の名作と伝説を生み出した
時代は、第二次世界大戦終結の年。全米各地を流れ、油田掘り、ポン引き、森林伐採人、サーカスの呼び込みなど数種類の職を転々とする。俳優になったのは、当時の彼女(最初の妻で舞台女優のニール・アダムス)に勧められ、軽い気持ちで演劇学校の面接を受けたこと。偶然演劇コーチが、かつてテレビ修理をした相手で、互いに覚えていたことが、難関を突破する一助になったかも知れない。人生の〝運と転機〞は常にあるいうこと。やがて〝面白い俳優がいる〞とテレビ界で評判になり、本格的に演技の基礎も学んだ。
それが、テレビでの代表作「拳銃無宿」に繋がる。映画では出世作の「荒野の七人」、そして「大脱走」へと実を結ぶ。あの伝説のオートバイ・シーンは、スピード・マニアの彼のために加えられたものであり、伝説の〝鉄条網ハイジャンプ突破〞はこうして生まれたのだ。スタントなしで挑んだことも語り草。
「ブリット」も「栄光のル・マン」もほぼ本人の運転だ。スピードへの思いを語る時も〝らしさ〞を感じる。『スピードこそ、完全なる幸福の時であり、神と対話できる瞬間なんだ』と。
以降は順風満帆。戦争の悲劇を描いた「砲艦サンパブロ」、イメージに合わない、と当初言われた「華麗なる賭け」も大ヒットさせ、刑事アクションの流れを変えた「ブリット」などなど。ただ同時に軋轢も生じた。『頑固な性格なので敵も多い』と本人も自覚している。
日本でも騒動があった。スピード・マニアの本領を発揮した前出の「栄光のル・マン」のスチール写真や映像が、日本で映画宣伝以外に使われ、肖像権を侵害された、として総額百万ドルの訴訟を起こし、わざわざ来日して法廷にも立った。ハリウッド・スターとしては前代未聞で、『単なるいちゃもん』『しつこい』との非難も浴びた。ファンの私ですら正直なところ『もっと泰然自若としていて欲しかった』(結局、敗訴になった)。
『細かい』という点では、誤解を生むことも。スターになった頃、撮影所から、大量に消耗品を持ち出すこともしばしば。売れっ子俳優がセコい、とも陰口をたたかれたが、真相は、10代でお世話になった問題児矯正施設へせっせと寄付していただけなのだが、どうも誤解を受けやすいようだ。そんな『元不良少年』らしい〝不器用さ〞も愛しい。
その代わり、かなり律義な人だったようだ。かの「シンシナティ・キッド」の当初の監督はサム・ペキンパーだったが、クランクイン直後、会社側と衝突して降板してしまう。ペキンパーと友情を育んだ彼は年に、父と息子の絆のドラマ「ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦」、銀行強盗アクション「ゲッタウェイ」と快作を連打し、その友情に応えている。