ハリウッド映画界を代表する監督・俳優のクリント・イーストウッドが、今年2020年5月31日で90歳を迎えます。マカロニ・ウエスタンへの出演、「ダーティハリー」の大ヒット、2度のアカデミー賞監督賞受賞など輝かしい経歴を持ち、いまだ現役で活躍を続けるイーストウッドのこれまでの映画人生を、4つの時代に分けて振り返ってみましょう。今回は前編です。(文・松坂克己/デジタル編集・スクリーン編集部)

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クリント・イーストウッド

1930年5月31日、カリフォルニア州サンフランシスコ生まれ。高校卒業後に働いたあと軍に入隊し、除隊後に映画界入り。TV「ローハイド」で人気者に。イタリアでマカロニ・ウエスタン「荒野の用心棒」などに出演後ハリウッドに戻り、「ダーティハリー」(1971)の大ヒットでトップスターになる。「恐怖のメロディ」(1971)で監督デビュー。以後、俳優・監督として活躍。「許されざる者」(1992)と「ミリオンダラー・ベイビー」(2004)でアカデミー賞監督賞・作品賞受賞。

TVと映画の西部劇でブレイク

1930年 大恐慌の真っ最中に誕生

世界中が大恐慌に陥っていた1930年5月31日、サンフランシスコ記念病院でクリント・イーストウッドは生まれた。本名はクリントン・イーストウッド・ジュニア。5キロを越える体重があったそうだ。当時、父親は運輸会社の重役だったが不況のあおりで失職、10年間で10回も引っ越しを繰り返した。

オークランド工業高校卒業後は、大学進学を勧める両親に反発、木材の伐採夫や鉄鋼所の工員として生活した。1951年には陸軍に入隊。当時は朝鮮戦争の最中だったが、イーストウッドはカリフォルニアの基地でライフガードとして勤務した。

除隊後の1953年にはマーガレット・ネヴィル・ジョンソンと最初の結婚もしている。そして1954年4月、アーサー・ルービンという監督のつてでユニバーサルと週給100ドルで契約、映画界に入った。

TV「ローハイド」で人気に

画像: 「世紀の怪物/タランチュラの襲撃」のイーストウッド

「世紀の怪物/タランチュラの襲撃」のイーストウッド

俳優としてのデビュー作はジャック・アーノルド監督のSFホラー「半魚人の逆襲」(1955)。ほんの端役だった。ほかにも「世紀の怪物/タランチュラの襲撃」(1955)「二人の可愛い逃亡者」(1957)などに出演しているが、いずれも脇役でなかなか芽が出なかった。

画像: TV「ローハイド」で知名度を上げた(左)

TV「ローハイド」で知名度を上げた(左)

転機が訪れたのは1958年のことで、CBSが製作するTV西部劇「ローハイド」に準主役での出演が決まった。このシリーズは翌1959年から放映され、1965年まで続くヒット・シリーズになった。イーストウッドも人気が出て、1962年には宣伝のため来日もしている。

画像: 「ローハイド」のプロモーションで1962年に来日(右から3人目)

「ローハイド」のプロモーションで1962年に来日(右から3人目)

マカロニ・ウエスタンへの出演

画像: イタリアで撮ったマカロニ・ウエスタン「荒野の用心棒」

イタリアで撮ったマカロニ・ウエスタン「荒野の用心棒」

「ローハイド」出演中の1963年後半、イタリアのセルジョ・レオーネ監督からの出演オファーが入る。イーストウッドは当初は出演に難色を示したが脚本を読み始めて内容に魅了され出演を承諾、イタリアに渡った。これが「荒野の用心棒」(1964)だ。

この作品がヒットしたため、イーストウッドは続けてレオーネと「夕陽のガンマン」(1965)、「続・夕陽のガンマン/地獄の決斗」(1966)を撮った。〝ドル箱三部作〞と呼ばれる三作だ。

「荒野の用心棒」が黒澤明の「用心棒」の無許可のリメイクだったため訴訟になり、この三作がアメリカで公開されたのは1967年、ようやくイーストウッドの映画スターとしての人気が確立されることになったのだ。

イタリアからの凱旋後には西部劇「奴らを高く吊るせ!」(1968)、ドン・シーゲル監督との出会いとなったハードボイルド「マンハッタン無宿」(1968)、戦争アクション「荒鷲の要塞」(1968)「戦略大作戦」(1970)など主演作を連発するようになっていった。

画像: ドン・シーゲル監督との最初のコンビ作「マンハッタン無宿」

ドン・シーゲル監督との最初のコンビ作「マンハッタン無宿」

マルパソ・プロダクション

画像: マルパソの第一回作品「奴らを高く吊るせ!」

マルパソの第一回作品「奴らを高く吊るせ!」

イーストウッドは早い時期に自分の製作会社を立ち上げた。“ドル箱三部作”で得た資金をもとに、1967年にマルパソ・プロダクションを旗揚げしたのだ。名称は彼の邸宅の近くを流れる川の名前にちなんだもので、第1回作品はユナイテッド・アーティスツと組んだ「奴らを高く吊るせ!」。

以降、彼の関わる作品のほとんどはこの会社で作られ、気心の知れたスタッフで効率的に進められるため、監督作では予定より早く進行することが多い。

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