カバー画像:Photo by Getty Images
短期間のうちに高いレベルで活躍し、瞬く間に駆け抜けてしまった唯一無二のスター
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「ジャイアンツ」の完成記念会見で
過去2作で定着したイメージから脱却するために選んだのが、続く「ジャイアンツ」(1956)だった。ここで、彼は若い牧童から一転して石油王に成り上がっていく男の不幸な生涯を、後半は老けメイクを施して熱演。
しかし、「ジャイアンツ」の撮影がアップした直後の1955年9月30日、愛車、ポルシェでカーレースに向かう途中の州道で、交差点を曲がろうとしていた車に激突し、24歳の若さでこの世を去る。
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事故死の当日、愛車のポルシェに乗るジミー
「理由なき反抗」(1955)は彼の死後1ヶ月後に公開された。翌年の第28回アカデミー賞では「エデンの東」の演技によって、さらにその翌年には「ジャイアンツ」で主演男優賞候補に名を連ねる。
故人として2年連続のオスカー候補という記録は未だに破られていない。結婚を考えていたという俳優、ピア・アンジェリとの熱愛、レーサーになることを本気で考えるほど熱中していたモータースポーツetc。
しかし、それら全てはジミーがハリウッドで花開いた、たった4年ほどの間に起こったこと。その間に出演した3本の映画も含めて、これほど短期間に高いレベルで活躍し、これほど足早に駆け抜けていったスターを、他に知らない。
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ジミーの墓にはファンからの花が絶えなかった
それを早逝故の伝説と解釈するのは単純すぎるだろう。その影響は映画界に止まらず、「理由なき反抗」でジミーが表現した生き方、そのスタイルは、エルヴィス・プレスリーやエディー・コクラン等、後に一時代を築くロックンロールにも影響を与えたと言われる。
彗星の如く現れ、消えていった稀代の青春スターは、同時に音楽界から〝最初のロックスター〞とも呼ばれているのである。