SCREEN11月号で募集した“レジェンド・スター総選挙”に、たくさんのご応募ありがとうございました。人気最高潮のさなかに衝撃的な死を迎えた人、一時代を築いて惜しまれつつ世を去った人……今は亡きスターにも様々な最期がありますが、時代を越えてファンの心に残る人こそ“レジェンド・スター”。そんな伝説のスターたちに、『もう一度あの人にスクリーンで会いたい』というファンの声がたくさん集まりました。今回は、ベストテンを一挙ご紹介します。(文・金子裕子、井上健一/デジタル編集・スクリーン編集部)

第1位 オードリー・ヘプバーン

世界中の女性が憧れたハリウッドに舞い降りた永遠の妖精

1929.5.4-1993.1.20

「ローマの休日」(1953)でデビュー以来、オードリー・ヘプバーンは、“妖精”として生きている。折れそうに細い手足、可憐で気品に満ちた佇まい、憂いを湛えた大きな黒い瞳……。そのあらゆる常識を超えた存在は、グラマラスやゴージャスがもてはやされたハリウッドに美の革命をもたらした。

さらに、2作目の「麗しのサブリナ」(1954)では、有名デザイナー、ユベール・ド・ジバンシーと手を組み、映画の衣装が流行を作る先がけとなった。このシネマとモードのコラボにより、オードリーはスター女優のみならず、“モードの女神”としても世界中の女性の憧れの的となったのだ。

出演作は決して多くない。しかし、どのスクリーンの中でもオードリーは美しく輝き、深い翳りや慈しみを体現。そう、その瞳の奥には孤独な少女時代の悲しみや戦争体験の恐怖がひっそりと隠れている。笑顔にさえ悲しみの香りが漂っているかのようで、誰もが魅入ってしまうのだ。

画像: 「ローマの休日」(1953)より

「ローマの休日」(1953)より

そして、その悲しみに鍛えられた“強い意志”により、晩年はユニセフ親善大使となり世界中の不幸な子供たちに惜しみない愛を注いできた。いまではアンジェリーナ・ジョリーをはじめ多くの女優たちがその遺志を継いでいることは、知っての通り。こうした軌跡をたどると、オードリーが数々の“先がけ”であることがよく分かる。

「人生でいちばん大切な物。それは信念を持つことです」という生前の言葉通りに、華やかなハリウッドにありながらも人としての優しさや慈しみ、そして信念を忘れない人生を歩んだからこそ、永遠の愛と尊敬を注がれる存在になったのだと、あらためて思うのだ。

画像: 「マイ・フェア・レディ」(1964)より

「マイ・フェア・レディ」(1964)より

オードリー・ヘプバーン

プロフィール

ベルギー・ブリュッセル生まれのイギリス人。両親の離婚を機にオランダへ移住し、バレエのレッスンを開始。ロンドンのバレエ学校でステージデビュー。数本の映画に出演後、主演を務めたブロードウェイ舞台作品「ジジ」が「ローマの休日」主役へのきっかけとなった。

主な出演作品 :「 ローマの休日」(1953)、「麗しのサブリナ」(1954)、「ティファニーで朝食を」(1961)、「シャレード」(1963)、「マイ・フェア・レディ」(1964)

長男ショーン・ヘプバーン・フェラーが語る、母オードリー

画像6: レジェンド・スター総選挙結果発表!【第10位〜1位】

今なお世代を問わず世界中に多くのファンを持つオードリー・ヘプバーン。そんな彼女の人生を描いたドキュメンタリー映画「Audrey」のプロモーションで長男ショーン・ヘプバーン・フェラーにインタビューした。

オードリーの母親としての素顔を聞くと、「子供の頃、何度か叱られたことがあるけど、基本的には母は自分の考えを伝えるというスタイルだった。『私だったらこうするけど、あなたは自分のやりたいことをする自由がある。この先ずっとあなたの側にいられるワケじゃないから、自分で経験して学びなさい』ってね」と教えてくれた。子供の自立を促す子育てだったようだ。日々の生活やしつけはどうだったのだろうか。

「早めに就寝すること。時間を守ること、準備をしておくこと……などね。セリフの覚え方については、こんなトリックを教わったよ。台本を寝る前に読んで、朝起きたら一番に読み返す。そうすると記憶に残りやすいんだよってね。ほかにもいろいろなトリックを教えてくれたよ」

日本語で挨拶ができるショーン。母親の来日経験については「『日本ほど愛情と親切な気持ちを注ぐ国はない』って話していた」と振り返った。最後に日本語で「ありがとうございます」と言うと、「はい、どういたしまして」とショーンも日本語で応えてインタビューを終えた。

text / はせがわいずみ

Photos by Getty Images, AFLO

This article is a sponsored article by
''.