吉川圭三
1957年東京・下町生まれ。「恋のから騒ぎ」「踊る!さんま御殿」「笑ってコラえて」の企画・制作総指揮・日本テレビの制作次長を経て、現在、KADOKAWA・ドワンゴ・エグゼクティブ・プロデューサー。著書も多数あり、ジブリ作品『思い出のマーニー』(2014)では脚本第一稿も手掛ける。
クリント・イーストウッド監督が映画監督になる前
イーストウッドの伝記を読むといまや世界的監督も映画界で大変な思いをしてきた事がよくわかる。大物監督の大作のオーディションを受けるもことごとく落ち、デビューはB級映画の端役。その後タランティーノ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でディカプリオが演じた様にテレビの西部劇ドラマ『ローハイド』に出演。
しかし、ハリウッドでの映画の役が付かないので33才のイーストウッドはイタリアに飛び“マカロニウエスタン”と称する西部劇に出演する。そこでセルジオ・レオーネ監督という鬼才と会い世界的ドル箱映画の3作を成功させる。イーストウッドはテレビ出演が多かったためレオーネ監督に「なぜアップのショットを撮らないのだ?」と聞くとレオーネはあの劇画「ゴルゴ13」の様なガンマン達の眼のアップを撮りイーストウッドを唸らせる。
アメリカに凱旋した彼はイタリアで得た資金で自分の映画製作会社「マルパソ・プロダクション」を設立。1971年にハリウッドの歴史に残る刑事映画『ダーティハリー』を名匠ドン・シーゲル監督とヒットさせた。この映画は強烈な暴力的アクション映画でありながら「法と犯罪現場での任務執行の難しさ」「人種的問題」「神は本当に人間を助けたもうか?」「犯罪者に権利を告知する『ミランダ警告』の無力性」などを描き今でも繰り返し上映される作品である。
ところで私は大学で講師をしているが130名の学生にこの映画のダイジェストを見せた事がある。講義後の感想文を読んでみるとほとんどが未見であったが絶賛の嵐で、中には「イーストウッド監督も俳優の時代があったのですね」という言葉もあり苦笑したものだった。
イーストウッドの処女作は、大絶賛の身の毛もよだつストーカー作品だった
この1971年、遅咲きのイーストウッドは初めての監督作品を作る。それは刑事ものでも西部劇でもなかった。これまで俳優だけやってきたが色々な監督の演出を散々経験して来た41才の男の遅咲き監督第一作。失敗は許されない。それは何と「サイコスリラー」だった。
『恐怖のメロディ』(1971)と題されたその怖い怖い映画はまだ“ストーカー”という言葉すら使用されていなかった時代にイーストウッド扮する人気DJ がとある女性に執拗に追い回されるストーリーだ。
舞台はアメリカ西海岸のカーメルという風光明媚な芸術・文化都市。そのラジオ局に毎晩「ミスティ」というジャズの名曲をリクエストしてくる女性がいる。ある夜放送が終わったイーストウッドは馴染みのバーに立ち寄る。バーテンダー(ドン・シーゲル監督の友情出演)と些細なゲームをしていると奥に黄色いシャツを着たミニスカートの30才くらいの女性がいる。微妙に美人だが決して絶世の美女ではないところがキャスティングの妙。やがて黄色いシャツの女は段々イーストウッドに近づいて来る。
バーテンダーがまるで彼女を射止めた事を祝福する様に「おめでとう」と言う。そして、彼は交際相手がいる事を告げ“一晩限り”という前提でその女と一夜を過ごす。彼女は「ミスティ」をリクエストしてくる本人だった。そして静かにただならぬ雰囲気の翌朝の画面あたりから観客はもう目を離せなくなってくる。
彼女イブリンは次の日もイーストウッドの家に彼女気どりでステーキを料理しに来るのだ。彼も訝しげに思うが油断してまた一夜を過ごしてしまう。彼女の帰り際、家の前でイーストウッドが「これきりにしよう」と言って口論していると、近所の住人が出てきて「静かにしてくれ」と言う。するとイブリンは狂った様に大声で住人に汚い言葉で罵るのだ。その様子にイーストウッドも戦慄し“自分はサイコな女と夜を共にしてしまった”とさとるのだった。
このあたりからあのサスペンスの巨匠・ヒッチコック顔負けの展開が起こる。映画においてはまず脚本(企画)・演出・キャスティングが出来不出来の鍵を握るのだがこの「恐怖のメロディ」はその全てにおいて成功している。しかも、見る限りかなりの低予算である。ワーナー・ブラザースが製作したイーストウッドのドキュメンタリーでスティーブン・スピルバーグは「この一作でイーストウッドは一夜にしてハリウッドの話題になった」と語っている。
また、映画史に造詣の深いマーティン・スコッセッシは「彼は我々が見てきた過去の名作と現代を結びつける存在だ」と語る。静かなる俳優は41才にしてハリウッドの門を見事に開いて見せたのである。
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