感情のバランスの悪さを対比として描く
──本作は劇場公開されると瞬く間に高評価の口コミが広がり、1ヵ月で国内興収が100万ユーロを突破するという爆発的大ヒットを記録したと聞きました。初監督作品でこのような評価を得たことについて、どう受け止めていらっしゃいますか。
愛し合いながらも生きることができなかった若者2人を忘れてはいけないという思いに突き動かされて、この作品を撮りました。ですから、多くの方に共感していただけたことは素直にうれしかったですね。ただ、この作品は私1人の力で作り上げたわけではありません。チーム全員が一丸となってがんばったからこそ撮れたのです。作品やチームのみんなに対して誇り高い気持ちを感じました。
─ジャッレで実際に起きた事件が元になっているとのことですが、とてもセンシティブな内容が含まれています。脚本を書く上で何か意識したことはありましたか。
脚本を書くにあたり、自分なりに想像力を膨らませて、自由に解釈しつつ、彼らを巡る社会状況を踏まえて脚本を書きました。この事件についていろいろ調べましたが、裁判は非公開で行われ、明らかになっていることがほとんどなく、実際に何が起こったのか、解明できなかったのです。
その際、センシティブな内容であることを意識しすぎて、作品が凝り固まったものにならないよう注意しました。愛はとてもシンプルなもので、人間にとってすごく大事な感情です。 “愛を恐れないでほしい”ということを強く伝えるために、作品に柔らかさがあった方がいいと思ったのです。
映画はゆっくりとしたペースで進んでいきます。それは映画が人生と同じようなリズムで進んでいくようにしたかったからです。
──関係者の方にお話をうかがったりされたのでしょうか。
あえて関係者には会いませんでした。自由なイマジネーションに余地を与えたいということもありましたし、今でもこの事件のことで苦しんでいる人がいるので、そこには触れないようにしたいと思ったのです。撮影場所も当事者の気持ちを乱さないために、ジャッレではなく、あえて遠い場所にしました。
事件をベースにしていますが、作品をドキュメンタリーではなく、フィクションにしたかったのです。物語の中には家の外で食事をするという私自身の子どもの頃の思い出も含まれていますし、1980年代のシチリアの風景の味わいも作品に盛り込みました。
──きっかけとなった事件は1980年に起きましたが、映画の舞台設定を1982年にしたのにはどのような意図があったのでしょうか。
1982年はイタリアにとって重要な年でした。まず、この年にサッカーのワールドカップでイタリアが優勝したのです。あの頃は経済的にも順調で、国全体が喜びに満ちあふれ、お祭り騒ぎになっていました。そこに作品の時代を設定すれば、自分たちが幸せの絶頂にあるときでも、周りで不幸なことは起こり、自分たちがそれを知らずにいるというバランスの悪さを対比として描けると思ったのです。
もう一つ、1982年はイタリアの素晴らしい音楽家であるフランコ・バッティアートが重要な作品を出した年でもあります。エンドロールに流れている「Stranizza d'amuri」は映画のタイトルですし、「Cuccurucucù」は2人が車で疾走するシーンで使っています。彼へのオマージュも含めて1982年にしました。