「私の遺灰をウィンダミア湖にまいてほしい」。亡き妻の遺言を叶えるために、父と息子はイギリスに向かう。しかしお互いに自分の気持ちを素直に伝えられない。『コットンテール』は心を閉ざしてきた不器用な父とずっと顧みられなかった息子の和解への軌跡を紡ぎ上げたヒューマン・ドラマである。主人公の兼三郎をリリー・フランキー、息子の慧を錦戸亮、認知症を患い、早くに亡くなった妻・明子を木村多江が演じた。自らの経験を基に脚本を書いたパトリック・ディキンソン監督が公開を前に来日。作品に対する思いや日本人キャストについて聞いた。(取材・文/ほりきみき)

パーソナルな経験をベースに物語を紡ぐ

──「コットンテール」といえばピーターラビットの妹の名前です。2013年に撮られた短編のタイトルが『USAGI-SAN』で、どちらの作品にもウサギが登場する文部省唱歌「ふるさと」が使われています。監督にとってウサギというモチーフには何か特別な意味があるのでしょうか。

8歳のときに家族でフランスに遊びに行ったとき、自分で撮った写真のテーマがウサギでした。私にとっては美しいけれど、脆さもあり、何か神秘的な生き物で、故郷というか、ホームを象徴するイメージも強くあります。確か、ピーターラビットの生みの親として知られるイギリスの絵本作家ヘレン・ビアトリクス・ポターも家族の一員としてのウサギを描いていたと思います。

ただ、イギリスでは「コットンテール」という言葉が広くウサギという意味で使われています。この作品でもピーターラビットの妹の名前という固有名詞ではなく広義に解釈し、言葉として美しいと思ってタイトルにしました。

そうそう、幼い頃、野山にウサギがたくさんいて、父親と「あれがピーターで、あれがフロプシーで…」と想像して遊んでいましたが、逃げるのがいちばん上手なのがコットンテールです。

画像: パトリック・ディキンソン監督

パトリック・ディキンソン監督

──本作も『USAGI-SAN』も妻が認知症になった夫婦の話を描いていますが、本作では『USAGI-SAN』で描いた内容が回想として描かれ、その先も描いています。『USAGI-SAN』を撮ったことで、ご自身の中に変化があったのでしょうか。

『USAGI-SAN』で夫婦の関係性を描いたので、『コットンテール』ではより大きなキャンバスを得て、家族の物語に広げていきました。

どちらの作品にも私が母親の介護をしたというパーソナルな部分が反映されていますが、映画にするならば、作品としてドラマがしっかりしていなくてはならなない。言い換えれば、自分のパーソナルな部分と作品は芸術的に違う物語であるべきだと思っています。介護の苦労を描きつつ、どちらの作品もラブストーリーでもあります。

画像: パーソナルな経験をベースに物語を紡ぐ

──本作はご自身のお母様を介護されたというパーソナルな部分が反映されているとのことですが、息子の視点ではなく、夫の視点で描いたのはどうしてでしょうか。

息子の視点で描くことも考えてはみたのですが、『USAGI-SAN』を撮った頃、自分自身が父親になりました。息子が生まれてうれしかったけれど、だからこそ、“自分の人生にはどんな未来が待っているのか”、“妻との関係性はどうなっているのか”といったことをいろいろ考えるようになりました。この作品には父親と息子の両方に自分自身を投影し、病が夫と妻、母と息子、父と息子の関係にどんな影響を及ぼすかということを描いています。日本でも、ロンドンでも、ロサンゼルスでも文化は違えど、生きている人間はみんな同じではないでしょうか。

ただ、映画監督として絶対にやりたくないのがキャラクターをジャッジしてしまうこと。観客に父親と息子、それぞれの思いを理解してほしい。

また、男性社会においては女性が声をあげ難いものの、いざ女性の存在が失われたら男性たちはどのようなリアクションをするのかも描きたいと思っていました。というのは、男性は往々にしてコミュニケーションが苦手だと思うのです。それを男性に話すと「そうかなぁ」という反応を示しますが、女性に話すと同感してくれることが多いです。

──介護は妹さんと一緒にされたと聞きましたが、作品に娘の視点を入れることは考えなかったのでしょうか。

まず、小さな家族にしたかったということがあります。3人のうち1人いなくなると2人になってしまう。残された者の悲しみが際立ちます。

義理の娘、家族に加わった若い女性というキャラクターに興味があったので、『USAGI-SAN』にも『コットンテール』にも登場させました。若い女性が加わったとき、家族に認知症の末期の人がいるというのはどういうことなのかを描きたいと思ったのです。

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