旅先のパキスタンで“タリバン”の嫌疑をかけられ、グアンタナモ収容所に収監されてしまった息子を助け出そうと奮闘する母親の姿を描いた『ミセス・クルナス vs. ジョージ・W・ブッシュ』が公開される。シリアスなテーマにもかかわらず、母親を主人公にしたことからコメディタッチで軽妙な作品に仕上がり、第72回ベルリン国際映画祭で最優秀主演俳優賞と最優秀脚本賞のW受賞の快挙を成し遂げた。アンドレアス・ドレーゼン監督に企画のきっかけから脚本開発の苦労、キャストへの思いを語ってもらった。(取材・文/ほりきみき)
ムラート・クルナスの本を読み、政府に対する強い怒りを感じた
──本作は実話をベースにしているとのことですが、2002年に「ブレーメンのタリバン」という見出しでムラート・クルナスさんのことが新聞の一面で報じられたときのことを覚えていらっしゃいますか。
私たちは世界の大きな政治的な出来事は自分とは関係ない、どこか違う、遠いところで起きていることと思いがちです。ところが、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件を起こしたテロリストがこんなに近くにいた。突然、身近になった気がしました。きっとそれは私だけでなく、新聞の見出しを読んだ多くの人が感じたことと思います。
その時点でテロリストの中にはドイツのハンブルクから加わった人が数名いたことがわかっていました。そういうこともあって、本当ならば疑って然るべきことなのに、疑いもせずにムラートはテロリストだと思いこんでしまいました。
──本作に関わることになったきっかけは2008年にプロデューサーであるクリスチャン・グランデラスさんからムラートさんが書いた本「私の 5 年間/グアンタナモに収容された無実の男」を渡されたことだそうですね。本を読んでどう思いましたか。
あの本はムラートが帰国した翌年の2007年に出版されたのですが、渡されてすぐに読み、とても感情が揺さぶられました。民主主義という隠れ蓑の下、グアンタナモ収容所でどんな酷いことが行われているのか、収容されている人たちがどれだけの苦しみを味わっているのか。そういうことは過去の話、特にドイツではナチス時代の遠い昔の話と思いがちですが、決して過去のことではなく、今、この時代に起きていることなのだと知って驚き、本当に強い怒りを感じました。すぐにでもムラートに会いたいと思いました。
──この作品における監督の原動力はムラートさんの名誉を挽回したいという気持ちもあったのでしょうか。
それは間違いなくありました。映画でご覧いただいたように、ムラートは帰国したときに髭を伸ばしていたので、外見は多くの人が頭の中で描いている典型的なタリバンの悪い人のイメージと合致していました。
しかし、ムラートは何もしていません。それにもかかわらず、ドイツ政府がムラートと家族に対して、いかに無知な振る舞いをしてきたか。賠償はおろか謝罪もされていません。そのことに腹が立ちました。政治家は誰も責任を取ろうとしていないのです。ムラートはブレーメンで生まれ、ドイツ語を話し、ドイツ国内で暮らしていました。国籍はトルコかもしれませんが、国籍を理由に助けないというのは間違っていると思います。
無実にもかかわらず、ムラートが着せられた汚名を晴らしたい。そして、ドイツには大勢のトルコ出身の方がいらして、何世代にも渡ってドイツで暮らしているのに、いまだに偏見が存在しています。それに対する怒りもありました。
ラビエとの出会いが諦めかけていた映画の企画を動かした
──脚本を担当したライラ・シュティーラーさんと組むのは本作で7作目とのことですが、2人でどのような役割分担をして脚本を作っていかれたのでしょうか。
実は、最初は別の脚本家と一緒に、無実の罪で5年もの間グアンタナモに収監されたムラート・クルナス本人の著作の映画化をしようと思っていました。しかし、それは非常に難しかったのです。そもそも私たちはグアンタナモがどんなところか知らず、想像さえできない。しかも、ムラート視点で描くと、とても陰惨で希望のない作品になってしまう。そんな映画は作りたくない。「これは無理だな」と絶望的な気持ちになっていました。
諦めかけていたところにムラートの母ラビエとの出会いがありました。ラビエの天真爛漫なキャラクターに魅せられ、友人でもあるライラにラビエの視点で物語を紡ぐというアイデアを話したところ、彼女は素晴らしいといって、すぐに話に乗ってくれたのです。ライラはさっそくブレーメンへ行き、ラビエに会って話を聞いたところ、ライラも子どもがいるので、同じ母親としてラビエが置かれた状況に身を置いて考えることができたのです。作品の方向性が決定づけられ、話が動き始めました。
この作品は法的な関係がものすごく複雑なので、そこをどのように映画に織り込んで伝えていくかが難しい。何度もラビエや弁護士のベルンハルトに会い、非常に密な取材を重ねました。結果、ラビエのキャラのおかげで道が開けました。ラビエがあっけらかんと単純な質問をし、ベルンハルトが丁寧に答える。それによって複雑で法的な問題が今、どうなっているのかをうまく描けたのです。
このようにして脚本が完成するまでに何年も掛かりましたが、ライラと私が納得できる内容の脚本ができました。
──ラビエが主人公になったことで、より身近に感じました。
私たちはムラートに自分を重ね合わせるのはとても難しい。しかし、息子がグアンタナモ収容所にいるとわかった母親が何を望み、何をするかということなら想像できる。観客が自らを物語と重ねるために、ラビエの視点を取ることは有効的な手段だと思いました。
ラビエは希望的な観測さえ抱くことができない状況からすぐに闘いを始め、最終的にはベルンハルトと一緒に息子を取り戻すことに成功します。もちろん何年も掛かりましたし、合い間合い間では本当に苦しい時期もありました。
しかし、普通なら考えすぎてしまって、「無理だからやめておこう」と思うところを、ラビエだから考えずに突っ走って行動する。ラビエが成し遂げたことは私たちに勇気を与えてくれます。そこが私たちを惹きつけるのだと思います。
──2012年から 2022年までブランデンブルク州憲法裁判所の一般裁判官を務められていますが、そのご経験はこの作品に何か活かされていますか。
ブランデンブルク州憲法裁判所にはアメリカの最高裁判所で扱うような事案はありませんから、直接的にはあまり活かされていません。しかし、裁判所というところが何をどう判断するところなのかという基本理解においては意味があったと思います。
ブランデンブルク州で州議会と州政府が決定したある法律が違憲であるという訴えが起こったことがありました。このとき憲法裁判所は州議会と州政府の判断をひっくり返す判決を下したのです。この事例によって、憲法裁判所の民主主義における重要性がわかりました。
ムラートの件でもアメリカの最高裁判所の判決は1つの方向性を道づけるものとして非常に大きな意味がありました。裁判所があるからこそ法律はチェック&バランスの機能をちゃんと持っており、大統領に対しても判決を下すことができるのです。