日本でもいよいよ公開を迎え話題沸騰中の『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』。前作とは一線を画す野心的なスタイルが様々な議論を呼んでいますが、そこにはどんな狙いがあったのでしょうか。劇中で引用される楽曲や過去の名作へのオマージュにも触れながら本作を考察します。
※ネタバレはありませんが、ストーリーに一部触れる箇所がありますので未鑑賞の方はご注意ください。
(文・斉藤博昭/デジタル編集・スクリーン編集部)
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コッポラ監督の『ワン・フロム・ザ・ハート』がインスピレーションに

画像: アーカム州立病院に収容されたアーサー(ホアキン・フェニックス)の裁判とリー(レディー・ガガ)との関係が展開

アーカム州立病院に収容されたアーサー(ホアキン・フェニックス)の裁判とリー(レディー・ガガ)との関係が展開

5年前の『ジョーカー』は、そのバイオレンス描写、社会派テーマ、そしてホアキン・フェニックスの演技と、あらゆる要素がセンセーションで、それゆえに一大ブームを起こした。通常、この手の作品に続編が作られる場合、観る側はさらなる過激さを期待する。その期待に作り手も応えようとするのが“常識”だが、トッド・フィリップス監督はむしろその常識を軽々と無視するようなスタンスで『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』(以下、『ジョーカー2』)を世界に送り出した。よりセンセーショナルなものを求めた人は、肩透かしを喰らったかもしれない。はっきり言って、ストーリーはコンパクトだ。アーカム州立病院に収容されたアーサー・フレックの裁判と、彼が院内で出会ったリーとの関係。その2つが進行し、もちろん他のキャラクターも関わってくるとはいえ、超劇的な波はそれほど起こらない。ジョーカーの存在を崇める人々の狂想もわりと限定的だ。この作りが賛否両論なのもよくわかるが、続編だからといって単にエスカレートさせないアプローチで、アーサーの精神にじんわりと同化を誘うドラマ。そこに身を委ねることで、クライマックスの凄絶さが痛いほど伝わってくるはずだ。

画像: “過激さ”をエスカレートさせるだけではないアプローチでアーサーの精神に同化を誘う

“過激さ”をエスカレートさせるだけではないアプローチでアーサーの精神に同化を誘う

フィリップス監督は、本作がミュージカルであることを強調していない。ただ前作『ジョーカー』でも、たとえばアーサーが小児病院で「幸せなら手をたたこう」を歌ったし、地下鉄で男たちが「悲しみのクラウン」を口ずさみながらアーサーを襲ったりしていた。後者の曲はミュージカル界のレジェンド、スティーヴン・ソンドハイムが手がけた「リトル・ナイト・ミュージック」のナンバー。さらにアーサーが銃を試すシーンでフレッド・アステアの曲が流れるなど、ミュージカルへの目配せがあった。

画像: アーサーのイマジネーション、妄想がミュージカル形式へ変換される

アーサーのイマジネーション、妄想がミュージカル形式へ変換される

撮影監督を務めたローレンス・シャーは、この続編にあたって、1982年の『ワン・フロム・ザ・ハート』をインスピレーションにしたと語っている。フランシス・フォード・コッポラ監督の同作は、王道のミュージカル映画のスタイルではないが、曲が主人公たちの心情を代弁しており、『ジョーカー2』にも通じる。『ジョーカー2』では法廷や、リーとのシーンで、アーサーのイマジネーション、妄想がミュージカル形式へ変換されるが、この手法は2002年のアカデミー賞受賞作『シカゴ』に似ている。同作が刑務所内のドラマだったので、より共通のムードを感じるのかもしれない。

歌詞とドラマのシンクロはことごとく美しい

画像: 往年のミュージカルへのオマージュが濃厚

往年のミュージカルへのオマージュが濃厚

『ジョーカー2』で使われたナンバーには、レディー・ガガ書き下ろしのオリジナルもあるが、スタンダード、およびミュージカルの名曲が連なって、作品全体にノスタルジーな空気を漂わせる。いきなりルーニー・テューンズ風のアニメで1作目の運命が再現され、思わず魅入ってしまうオープニングで、1937年の『踊らん哉』の「Slap That Bass」(1作目でも使われたフレッド・アステアの曲)から、1950年の『サマー・ストック』の「Get Happy」へのメドレーからして、往年のミュージカルへのオマージュが濃厚。その後も『スイート・チャリティ』、『パル・ジョーイ(※映画版は『夜の豹』)』などのミュージカルから、通好みの名曲が使われるが、メジャーなナンバーとして作品全体のテーマも奏でるのが、1953年の『バンド・ワゴン』の「ザッツ・エンタテインメント」だろう。このタイトルでミュージカルの名場面を集めた映画が作られたように、往年のミュージカル映画全体を象徴するナンバー。アーサーとリーが刑務所内で『バンド・ワゴン』の同曲シーンを観るだけでなく、現実パートでリー役のレディー・ガガがワンフレーズを歌うことで、この物語=アーサー/ジョーカーの運命を「これこそエンターテインメント」と訴えているようだ。

画像: ホアキン・フェニックスとレディー・ガガの“極端ではない”演技は物語に即している

ホアキン・フェニックスとレディー・ガガの“極端ではない”演技は物語に即している

オマージュという点で、前作では『タクシードライバー』、『キング・オブ・コメディ』というマーティン・スコセッシ監督作がわかりやすく引用されたが、スコセッシがその2作の間に撮ったのが、彼としては珍しいミュージカル映画の『ニューヨーク・ニューヨーク』だった。『ジョーカー2』とはまったく違う設定とはいえ、両作の主人公2人の関係にはリンクする部分を発見できるし、何よりスコセッシの中で最も賛否ある作品という点が、『ジョーカー2』に通じる気もする。

配給のワーナーが「これはミュージカル映画ではありません」と宣言したように、たしかにミュージカル場面の演出はやや抑え気味という印象もある。それでも前述のナンバーの他にも、「ラヴ・サムバディ」(『小さな恋のメロディ』や最近の『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』でも絶妙に使われたビー・ジーズの名曲)や、1作目でも複数回流れた「ザッツ・ライフ」の使われ方、歌詞とドラマのシンクロはことごとく美しく、ミュージカル=究極の作り物、として本作に没入するべきなのだろう。

その世界への案内人として、ホアキン・フェニックスとレディー・ガガの演技は、極端な振り幅は少ない。どうしても前作と比較されてしまうが、ホアキンのアプローチは物語に即していると言える。一方でガガは、シェイクスピアのマクベス夫人のごとく、深部でアーサーを操る意味で、こちらも激演しなかったのは正しい。それでもクライマックスでのアーサーの悲劇で、ホアキンが異様な肉体の動きを見せるなど、何度かこの俳優に潜む“狂気”に接したとき、ミュージカルとして形成された夢物語が崩れ落ち、現実に引き戻される錯覚をおぼえるのだった。

ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ
公開中
配給:ワーナー・ブラザース映画
監督:トッド・フィリップス
出演:ホアキン・フェニックス、レディー・ガガ、ブレンダン・グリーソン、キャサリン・キーナー、ザジー・ビーツ

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