綾野剛なら、もっと乱高下できる振り幅を持っているはず
──なぜ、まったくビジュアルの違う綾野剛さんにお願いしたのでしょうか。
綾野剛が演じたら、エッジが効いていていいと思いませんか。そのままでも十分、エキセントリックではあると思うのですが、綾野剛なら、もっと乱高下できる振り幅を持っているはずという期待もありました。
綾野剛は普段、見せているのはどちらかというとナイーブな面だけれど、芯には強い思いがある。この作品の主人公とはちょっと遠いところにいるけれど、そこのギャップを彼は楽しめるし、自分なりにやり通すのではないかという気もしました。
映画は興行ですから、監督より先に、まず俳優から決めることもあります。この作品では綾野剛が先行していました。最終的な決定は僕が入ってからでしたが、前提として綾野剛があり、僕もそれがわかった上で原作を読み、「なるほど。いいかもね」と思いました。幸いにも、原作は活字ですから、登場人物の見た目にはあまりこだわらなくてもよかったのです。これがアニメやコミックが原作になると、似ていないといけない気がしてしまい、外側をコピーしていくところから始まるのですが、それが全くフリーな状態でした。
社会派の監督であれば、このテーマを扱うとなると、やはり「まず、本人に会って、取材をせねば」と考えるかと思います。しかし、自分の場合はあくまでも、ある1つの真実を描いたルポの映画化。自由度が高いのです。
ただ、何も決まっていないところからのスタートだったら、迷ったと思います。迷った末に「本当はどういう人だったの?」と本人のところに行ったかもしれない。
映画がどういう方向に転がっていくのかは、監督やスタッフ、俳優のタイミングや作品との出会い方によって違ってくるものだと思います。その点、自分はそこに割と素直に巻き込まれるタイプです。
キャラクターを作っていくのも、いろいろ議論しながら考えるというのではなく、衣装合わせを見て、「これ、違うかな」と思ったら、別の物を着てみる。そして「これかな」といった感じを探していく。なぜ違うのか、根拠はなく、言葉にできないことが多いのですけれどね。律子さんもその場に合ったものをぱっと着てみて、「このワンピース、違う感じだよね?」「ですよね」みたいに、それぞれが朧げにつかんでいるものを実体化していったのですが、自由な感じで楽しかったです。その辺はいい俳優が集まってくれたので、できた部分はありました。

──先程、「法廷も法廷劇としてのエンターテインメント性はできるだけ排除しました」とおっしゃっていましたが、作品を拝見して、一般的に最大の見せ場である法廷でエンターテインメント性が本当に排除されていたのに驚きました。
役者は台本を読んだときに、自分にとってどこがハイライトなのかを考えます。薮下なら普通は法廷シーンで熱弁を振るうところがハイライトだと考え、最終陳述の前に湯上谷弁護士に自分の心情や家族への思いを語るのを助走にして、法廷での最終陳述までをひと繋がりになるように綾野さんは演技の計算したはず。そのシーンの撮影までに、セリフを声に出して、いろんなパターンをやってみたでしょう。
ところが、他のシーンを撮っているうちに、綾野さんは「薮下にはハイライトがない。でっちあげられた以上に見せ場のない人生を描くのに、法廷を見せ場にして熱演してはいけない」と気づいた。この映画の本当の見せ場は演じている自分を見せるということではないという境地に綾野さんは到達したのです。その結果、いろんなものを捨てていった。「どこに自分のピークがあるのかを考えていましたが、それは間違っていました」と言って、拍子抜けくらい淡々と演じてくれました。
さすがですよね。「この役はどこに見せ場があって、どこで観客を感動させるのか」ということから抜け出るのは勇気が必要なことだと思います。
俳優は確信を持って演じるのは難しく、「本当にこれでよかったんだろうか」という思いを抱えてしまいがちです。そもそも撮っているのは他人だし、自分がイメージしている映像とは画角も角度も違うかもしれない。しかも撮った映像を後から編集され、自分がイメージしていたものとは違う音楽がつけられることがあるかもしれない。それでも、自分が主役として世に問われ、ヒットしなければ「いい仕事するのに当たらないね」と言われる。そういう立場は孤独です。キャスティングしたのはこちらですから、本来、俳優には責任はないはずなのに、大変な仕事ですよね。
そういったことを日常として何本も何本もやってきた中で、綾野さんは自分をすっかり捨てて、この先生を演じてくれた。感謝しかないですよ。

──薮下と亀梨和也さんが演じる雑誌記者の鳴海三千彦が雨の中、対峙するシーンは本当に豪雨だったと聞きました。
雨降らしと呼ぶ特機で雨を降らせていましたが、突然、豪雨になり、ラストカットは30分くらいのゲリラ豪雨でした。突風で傘が転がっていくのはリアルです。本番の合間にそんなゲリラ豪雨が降ってくるなんて、運命ですよね。
生理的にこみ上げてきた思いというものもありますが、雨で会話が聞き取り辛いから自然と声が大きくなり、テンションが上がってくる。鳴海の態度に対して孤独を感じて、ナチュラルに切れることができ、薮下はがぁーっと訴えたわけです。
ワンカットで撮るわけではないので、「はい、カット」で20分くらい休んでから、次のカットに入ります。環境や相手の状況はテイクによってブレが生じるので、それでも前のカットと同じ精神状態で演じるのは、俳優としてはテクニックが必要です。しかし、綾野さんはそのブレを大事にし、そこに身を投じて、その場に染まってしまうことをもはや楽しんでいるように見えました。年齢的にまだ若さもあって、ある意味の不安定さや、だからこその色気もある。綾野剛としてすごくいい時期で、今が1つのピークなんだと思います。年齢とともに演じる役柄が変わっていき、肉体も変わって、性格も変わって、また次のピークが来るんだろうね。そういうところで光石さんに近いものを感じ、「俳優っていい仕事だよね」と僕には見えました。

──光石研さんは監督の作品にいくつか出ていらっしゃいますね。
校長先生の光石研さんは『博多っ子純情』(1978年)で主役に大抜擢されてデビューされた方ですが、昔からよく出てもらっています。決して器用な方ではないのですが、デビュー後、いろんな監督の下でキャリアを積んで、すごい役者になったなと思います。見事ですよね。この作品でも事なかれ主義の校長先生を、いわゆるお芝居をせず、普通に演じていますからね。例えば法廷に呼ばれたときの狼狽ぶり、一方でまだプライドが捨てきれず、ぐっとにらみつけている顔、最後にモンタージュ的に差し込んだ、定年を迎えたときに花束をもらっている笑顔とか…。俳優として生きるというのは大変だけど、俳優という仕事は面白いかもしれないと、光石さんを見ていて感じました。

<PROFILE>
監督 三池崇史
1960年8月24日生まれ、大阪府出身。米国アカデミー会員。CAA所属。横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)で学び、1991年にビデオ作品で監督デビュー。『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(95)が初の劇場映画となる。Vシネマ、劇場映画問わず数多くの作品を演出。『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』(07)、『十三人の刺客』(10)でヴェネチア国際映画祭、『一命』(11)と『藁の楯』(13)でカンヌ国際映画祭と、それぞれコンペティション部門に選出され、海外でも高い評価を受けている。主な作品に『クローズZERO』シリーズ(07・09)、『ヤッターマン』(09)、『悪の教典』(12)、『土竜の唄』シリーズ(14・16・21)、『初恋』(20)、『怪物の木こり』(23)などがある。

『でっちあげ ~殺人教師と呼ばれた男』6月27日(金)全国公開
映画『でっちあげ』予告|6月27日(金)全国公開
youtu.be<STORY>
小学校教諭・薮下誠一(綾野剛)は、保護者・氷室律子(柴咲コウ)に児童・氷室拓翔への体罰で告発された。体罰とはものの言いようで、その内容は聞くに耐えない虐めだった。これを嗅ぎつけた週刊春報の記者・鳴海三千彦(亀梨和也)が"実名報道"に踏み切る。過激な言葉で飾られた記事は、瞬く間に世の中を震撼させ、薮下はマスコミの標的となった。誹謗中傷、裏切り、停職、壊れていく日常。次から次へと底なしの絶望が薮下をすり潰していく。
一方、律子を擁護する声は多く、"550人もの大弁護団"が結成され、前代未聞の民事訴訟へと発展。誰もが律子側の勝利を切望し、確信していたのだが、法廷で薮下の口から語られたのは「すべて事実無根の"でっちあげ"」だという完全否認だった。
<STAFF&CAST>
監督:三池崇史
原作:福田ますみ『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』(新潮文庫刊)
脚本:森ハヤシ
出演者:綾野剛 柴咲コウ 亀梨和也 大倉孝二 小澤征悦 髙嶋政宏 迫田孝也 / 木村文乃 光石研 北村一輝/ 小林薫
配給:東映
©2007 福田ますみ/新潮社 ©2025「でっちあげ」製作委員会